本棚の隅にある、昭和3年に復刊された「都林泉名勝図会」(寛政11年)を手に取った。寛政年間に活躍した京の俳人に関係するものが見つかるかもしれないと思ったのだ。
同書は、京の林泉(林や泉水を配した庭園)を絵入りで紹介する京の観光案内といったらいいか。
天明6年に刊行された京の名所案内「都名所図会」が大当たりしたので、翌年に「拾遺都名所図会」が出、10年以上間があいたが満を持してこの「都林泉名勝図会」の板行となったようだ。版元は「吉野屋為八」。住所は、京寺町通五条上ル町だった。
東山界隈を見ると、雙林寺長喜菴の林泉の画の中に、西村定雅の句があった。
「むかしみし夜のおもむきや梅の月 定雅」
さらに探すと、円山長寿院左阿弥の画に
「梅のはなあたら莟の開きけり 定雅」
が見つかった。
画中ではないが、高台寺の項の文中には、
「高台寺の花ざかりに」と前書きして
「迷ひてぞ世はおもしろき桜かな 定雅」
また、鴨川に架かる四條祇園橋の項の文中にも、四條納涼として、蕪村の句「丈山の口が過たり夕すずみ」と並んで、
「涼しさや群集(くんじゅ)の中も水の月 定雅」
があり、定雅の作品は4句もあった。
この書の凡例によると、「林泉に古人の詩歌寡し。故に今時京師に於て名家の詩歌を乞需て多く図中に釘す、其中に作者自筆の詩歌もあり、俳諧狂歌も亦これに准ず」とある。
古来、林泉を歌ったものが少ないので、今の時代の京の「名家」に詩歌を依頼して掲載した、なかに自筆のものもある、ということだ。
当時活躍していた京の俳人では、芭蕉堂宗匠の闌更が1句、月居、二柳が2句、暁台は1句だった。
驚いたのは、東山の知恩教院(上図、大谷寺)の泉水の項の文中に、「狼狽窟」の和歌があることだ。
蕪村の2句に先んじて、
「しら雲と見つつも人のむれたつかなべてを花のいただきの山 狼狽窟」
とある。
先に、俳人で洒落本作者富土卵(とみ・とらん)が「狼狽山人」「狼狽窟」と称したことに触れた。定雅と親しかった土卵も「名家」扱いで登場しているようだ。(この歌の後に、蕪村の「なには女や京を寒がる御忌詣」「御忌の鐘ひびくや谷の氷まで」が続く)。
京の案内書を手掛ける書肆の吉野屋為八、あるいは著者の秋里籬島は、京生まれの定雅や土卵を重用しているように思える。
当時の京の俳諧は、夜半亭与謝蕪村の流れが、蕪村、几董の相次ぐ死で滞ってしまった。晩年蕪村が嫌った名古屋の加藤暁台や、蕪村、几董に破門扱いされた月居が、蕉風中興を唱えて二条家を巻き込み、格式を重んじる二条家俳諧を始めた。東山の芭蕉堂に依拠した加賀蕉門の高桑闌更、成田蒼虬らも二条家の宗匠となって勢いづいた。
彼らの近くにあって、距離を保ち続けた定雅は、60歳を越えてから芭蕉堂に対抗するかのように、俳仙堂を立ち上げる。
「羇旅漫録」の中で、江戸の戯作者瀧澤馬琴は、京について、思い切ったことを言い放っている。
「京の人に滑稽なし、自笑其碩と近年胴脈とのみ。むべなるかな、ばせを(芭蕉)も蕎麦と俳諧は京の地にあはずといへり」
芭蕉も言ったように京に俳諧は向かない、と馬琴は滞在中に思ったようだ。馬琴は定雅、土卵とも会っている。江戸の戯作者の目に、当時の京の人たちがどう映っていたのか。