捨文事件と二条家

 寛政12年(1800)の大坂俳諧師事件では、結局俳諧師たちにおとがめはなく、その後の活動にも影響はなかった。

 

 私は気になって、捨文の中で「鎮西将軍」に担がれた二条家について知りたくなった。二条家といえば、二条良基以来、和歌の家として知られる。

 

 事件の5年後、左大臣だった二条治孝(1754-1826)は、次期関白の就任を前に、光格天皇から拒否、就任のダメ出しをくらったのだった。

 理由は、「非器」。関白の器でない、というものである。これを受けて、幕府も同様の判断をし、しばらくは鷹司政煕が関白を続けることでしのいだ。

 さらに治孝の後ろ盾だった後桜町院が逝去したのを待つかのように、関白には治孝を飛び越えて、一条忠良が就任した。

 その後、二条斉信もまた、左大臣の後、順番を外されて関白にはなれなかった。

 

 これが、事件と直接関連があったかは分からないが、寛政2年に「二条家俳諧」を始めたことが、不評を買った可能性は捨てがたい。

 

 その前に、二条家俳諧とはどんなものだったか、確かめてみた。

 寛政2年(1790)の当主は斉通(9歳)であったが、その父の左大臣治孝が、二条家俳諧を始めたのだった。

 其成の「二条家俳諧」を読んでみた。其成は二条家俳諧に深くかかわった版元菊舎太兵衛(きくや・たひょうえ)の俳人の号だった。

 

 二条家に招かれて初代の二条家俳諧宗匠御朱印免許を得た加藤暁台、江森月居が、金銭を払ったことも、「御賄金三十両献ず」と淡々と記されていた。

 9月4日円山端寮で予行(習礼)の後、翌5日二条家で「花御会」が開かれ、暁台が宗匠を務め、月居が脇宗匠を勤めた。彼らは、宗匠の「免許服」として、平安装束の紫の水干、白の指貫(袴)、風折烏帽子を着用したのだった。

 此の時の様子は、二条家当主(治孝)が「俳諧衆とは御簾を隔てた間に御出し、俳諧の座は上段と下段に分けられ、宗匠や御所様御名代の諸太夫らは上段に居る。こうした俳席での上下の区別は、俳諧の根本精神を否定するものであった」と、富田志津子氏「二条家俳諧の創始と暁台」(連歌俳諧研究 1996年90号)に記されていた。

 

 其成の書によると、二条家宗匠免状は、同年松岡青羅、高桑闌更にも出され、10月16日に青羅が、翌17日に闌更が「御会」を勤めた。免許服はともに「桔梗さむ服白指貫烏紗巾」と、法衣のようでもある。続いて、月居の推薦で和泉の佐野右稲も宗匠の免許が出された。右稲の免許服は「朽葉色水干白指貫風折烏帽子」で、「御会は不勤」とある。月居が間に立って、金銭で名誉を斡旋する典型例かもしれない。

 

 寛政4年(1792)に、二条家に働きかけて俳諧師への「花の本」免許、宗匠免許を実現させた立役者の名古屋の俳諧師暁台は没する。(前年には宗匠青羅も歿)

 翌年二条家俳諧は、松尾芭蕉に「正風宗師」を追号し、額を作り、芭蕉の墓のある義仲寺と、東山の芭蕉堂に額を寄贈した。井上重厚の義仲寺の芭蕉忌、闌更の芭蕉堂の花供養に、二条家俳諧としてお墨付きを与えたのだった。

 この動きは、宗匠闌更とともに、二条家から「御俳諧衆」の免状を取得し「御俳諧書林」を名乗った菊舎太兵衛の働きもあったのだろう。

 

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 天明期の「蕉門書林」(右)と寛政期の二条家免状を得ての「御俳諧書林」

 

 寛政10年に闌更が没し、同じ金沢藩出身の成田蒼虬が養子に入って芭蕉堂を継承した、その翌々年に大坂で捨文がされたのだった。

 

 富田氏の論文で、京都の俳人で随筆家の神沢杜口(かんざわ・とこう、1710-1795)が二条家俳諧に憤っていることを知った。(翁草)

摂家の御館に俳席を立玉ふは未曽有の事、道のめいぼくに似たりといへども、図らずも俳諧は雲井にのぼり、和歌は地下へ落る事、下剋上の道理にて、誠の道の栄えとも云がたらんか

今や俳諧衰へてさせる宗匠もなき世の中に、かたへの人のそそのかし奉りて、やごとなき摂家の御館にて、あらぬものどもをめされて御興行有は、(中略)唯一時の興に猿楽などをめさるるに等しければ、強ち此道への栄えとも申しがたし

 和歌の本家が俳諧を持ち上げることは、下剋上であり、和歌の堕落であり、摂家の堕落であると声をあげているのだった。

 元京都奉行所の与力であった杜口の考えは、京では特別なものではなかったと思われる。

 一見「三十両」の月居を貶めるような捨文の背景には、京の杜口のような二条家への批判が強くあったのではないか。関白として「不器」とされた要因に、捨文に至る一連の二条家俳諧の京での評判があったと推測される。

 月居への恨みという大坂城代の判定で結局収まった一件は、実は、「二条家俳諧」をめぐる京の俳諧の世界や、公家の間の政治的な駆け引きを含んだ、京の者が引き起こした事件であったという思いがしてくる。