大坂俳諧師事件と定雅

 京の俳人で洒落本作者の西村定雅が、東山雙林寺で暢気に「烟花書画展覧」を開催した半年前の寛政12年(1800)3月、「大坂俳諧師事件」なるものが持ち上がっていた。雙林寺の芭蕉堂の成田蒼虬も巻き込む騒ぎだった。

 私は全く知らなかった。

 この一件を調べた大谷篤蔵氏「寛政十二年大坂俳諧師一件」(「俳林閒歩」所収・87年刊)の存在を、肥田美知子氏「俳仙堂西村定雅」(2016)を通して知り、読んでみたのだ。実に興味深い事実に、夢中になってしまった。

 

 事の起こりは、大坂・東横堀川の農人橋で、捨文が見つかったことだった。同橋は、大坂城への連絡口に当たることから、幕府が管理する公儀橋であり、奉行所へ密告する捨文の置き場所として格好だった。

 3月28日、橋の勾欄の外で見つかった捨文は、油紙で包んだうえ、挟み板で抑え、短刀に苧縄で結び付けられ、「御本丸御用」としたためてあった。

 

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 中身は、大坂の俳諧師・月居が、全国の俳諧師に発信した文書の体裁で、大坂石山城へ京の公家二条殿を移し、鎮西将軍として奉り上げるため、軍用金30両ずつ提出するよう求める、物騒な内容だった。

 35人の俳人の名と住所が書かれており、その中には江戸の夏目成美、名古屋の井上士朗、浪花の大伴大江丸ら著名な俳諧師が含まれていた。

 

 大坂城代は、幕藩体制に挑戦する不穏な企てとして、江戸の老中に報告し、探索を開始したのだった。

 

 大坂の俳諧師14人を軒並み調べ上げると、相応に暮らしぶりもいいし、風雅を好み、武術などを学んでいる様子もない、と報告があがった。

 

 発信者の月居の確保を目指したが、転々としており、大坂のほか転居先の京、若狭小浜まで厳しく探索したが、本人を見つけられなかった。

 

 荒唐無稽な内容の為、名前の挙がった俳諧師へ恨みを抱く者によるものではないか。その線の探索も進められた。大坂の俳人魯隠は、かつて、店(かぢ作)の手代に訴えられたことがあった。奉行所に取り上げられなかった手代は江戸に行き、老中に駕籠訴し、50日の手鎖になった事実が浮かんだ。(結局無関係と判明)。

 

 次いで、京の探索に入った。

 捨文に名があった京の俳諧師は雙林寺芭蕉堂の二代目となった成田蒼虬。その門人鹿古、閑叟の計3人だけだった。

 鎮西将軍に担がれたという、二条家は、公家五摂家のひとつで、24代当主斉通が寛政10年に没して、12歳の斉信が25代当主となっていた。

 捨文には、30両の取次世話人として楠山、宇河、杉山の3名の名があり、彼らを京の者と当たりを付けた。「京都の堂上方武家方と見当をつけるが見当らず」(大谷氏)。地下官人、武士を探したが見つからなかった。

「宮様方を再度聞合せても不明、三度堂上方出入、御用達の町人までも似寄の名前を聞合せるが遂に不明に終る」

 

 探索の途中、恨みを買った俳諧師が月居であることが、分かってきた。月居と二条家に関係があり、捨文の「三十両」に関しての附合に気がついたのだ。

 寛政2年二条家(斉通の代)で、二条家俳諧が行われたが、その際、月居が二条家に招かれ「右方宗匠」という御朱印免状を得ていた(左方宗匠は名古屋の加藤暁台)。

 それも、実力で択ばれたのではなく、お金で宗匠になったことが、其成「二条家俳諧記」に記されていた。「(暁台、月居)二子とも御館入御賄金三十両献ず」とあり、30両という大金で俳諧宗匠の地位を得たというのだった。

 

 宗匠という箔をつけた月居は、当時大流行だった諸国発行の「俳諧師角力番付」の上位にランクされるばかりか、その判定人「行司」の仕事も舞い込んできた。

 東西の番付の地位は、俳句で暮らす全国の俳諧師匠にとって死活問題だった。大谷氏は「書肆と結んで俳諧師番付を拵えるなど、いかにも月居にありそうなことである」と書いている。

 

 2か月後に大坂城代が出した結論は、捨文は虚偽であり焼き捨てるという決定だった。「この捨文の正体を見抜いて、全くの拵え物であるとし、当時流行した見立て番付の一種である諸国俳諧番付に除かれたかあるいは下位に位置付けされたものが、その報復手段として番付編者を陥れるためにかかる怪文書を捏造したものと推測している」(大谷氏)。

 月居の判定を恨んだ俳諧師の仕業と判断したのだった。その人物は特定されなかった。

 その後、月居は復活し、大坂で変わらず大物俳諧師として活躍した。

 

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 番付というのはどういうものか。WEBで見つけた上田市立博物館蔵の文政4年(1822)の俳諧師角力番付には、東(諸国)、西(江戸)と分かれ全国の俳諧師の名が連ねてあった。江戸・浅草で出されたものだった。

 東の最上位は「大坂 月居」。大きな活字で書かれている。3番目は芭蕉堂の蒼虬。諸国でトップの俳諧師として月居は判定されていたのだった。

 判定する行司が3人いて、1人は「捨文」に名のあった月居の仲間、大坂の長斎だった。

 俳仙堂西村定雅の名は、5段ある番付の内3段目の5人目に小さな字で記されていた。京の俳諧師では雪雄、梅價などより下位の5位ということになる。実力とは無関係の当時の俳壇が伺える。

 

 定雅は「捨文」に名が書かれておらず、月居とは一定の距離を取っていたと推測される。「睟」を唱える京の俳人にとって、番付に関心を持たなかったかにも思える。

 

 それにしても、念入りの捨文はどこのだれが書いたのだろう。大坂城代は、結論に当たって、ヒントとなる4点の俳諧師番付を添えたが、それらは今に残っていないのだという。