芭蕉蛮刀図と定雅

 寛政12年(1800)に京・東山の双林寺境内で開催された「烟花書画展覧」の会について調べていて、妙なことに気づいた。まずは、会を振り返るとー。

 

 この催しには、俳人で洒落本作者の西村定雅が出品したが、主たる出品者は、賀楽狂夫という人物だった。

 吉野太夫の遺品の蟹酒盃、煙盒、黄金笄、柿右衛門作吉野泥像など、目を惹く展示物はこの人物の所有だった。

 目利きだったのだろう、江戸でも注目されだした尾形光琳の画軸も出品した(「光琳節分夜於花街所画宝船」)。 

 本名は、立入(たてり)経徳(1755-1824)。中務大丞大和守を名乗っている。京の俳人であった近衛将監の富土卵とともに、地位の高い地下官人だったようだ。

 

 この賀楽狂人が「睡余小録」(京・平安書林、文化4年=1807年刊)に関与しているのを知った。この書には、信長の釜、宮本武蔵の印章など、興味深くも眉唾な骨董が掲載されている。東都の山白散人が「選」、皇都の賀楽大人(狂夫)が「付録」と、江戸の山白散人、京の賀楽大人がそれぞれ集めた品々を絵入りで紹介している。

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 以前、私がこの書に関心を持ったのは、芭蕉が持っていた「芭蕉蛮刀図」=下図=なるものが掲載されていたからだった。京・嵯峨野の落柿舎を訪れた芭蕉が携帯していた刀で、門人で庵主の向井去来に譲られ、三代目庵主の山本氏の許可を得て山白散人が写したと書かれている。一目でにせもの臭いと思った。

 

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 人物事典では、山白散人は、河津山白という京の人物で、書画の鑑定にすぐれ、文化4年(1807)10月17日歿とある。名は吉迪。字は子彦。

 東都の人でなく、京の人ということになる。「睡余小録」を刊行した年に没したことになる。

 

 今回、「睡余小録」の付録で、賀楽狂人が先の「烟花書画展示」の会で展示した所有物を紹介しているのに気づいたのだ。柿右衛門作吉野泥像=下図=、吉野太夫手簡(てがみ)・・・。「睡余小録」の付録は、賀楽狂夫の書画展示の出品目録のようだった。

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「烟花書画展示」と「睡余小録」との密接な関係に気づいて「烟花書画展示」の目録をもう一度見てみた。山白散人こと、河津氏出品のものがあるのではないか。

 あった、巻軸の部、遊女手鑑の出品物2点だけ。西村氏と河津氏と交互に出品者名が並んでいた。西邑氏の名も交っていた。

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延宝中遊女手鑑   巷菱屋

同別本 手鑑    河津氏

元文中同手艦   西邑氏

享保中同手艦   河津氏

元文中同紙短冊手艦  西村氏

宝暦中同手艦     同

 

 あれほどの収集家の河津氏の出品はこれだけだ。西村、西邑、河津・・・。

 私は妙な気がして、今度は「睡余小録」を見直した。

 書画展示の会で西村定雅が出品したはずの八千代と小藤の艶書が、山白散人によって絵入りで紹介されていた。

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 説明には、「西村出羽守正邦」のものと記してあった。西村正邦は、「睡余小録」に序文を寄せている「西村勘解由判官出羽守正邦」のことらしい。眉唾の人物である。

 

 山白散人は本当に実在したのだろうか。

 西村定雅が、山白散人になりすまし、西村勘解由判官出羽守正邦もまた、定雅の偽名ではなかったか。西村氏、西邑氏、西邨氏、そして河津氏。みな定雅だった。

 こう考えると、筋が通って来る。定雅は、東都の山白散人を名乗って、「睡余小録」をものしたのだ。双林寺で烟花書画展示を共催した賀楽狂夫とともに、その展示会を下敷きに信長の釜、大石良雄の手簡など追加して披歴したのが、「睡余小録」であると。

 

 怪しげな芭蕉の蛮刀は、俳仙堂の設立を目指す定雅が、芭蕉のゆかりのものを探しているうちに見つけたものだったのではないか。 

 定雅という人物は、結構面白い人物だった、そんな思いが膨らんできた。