未乾画伯の装幀本と鯖姿寿司

 京都の洋画家・船川未乾(ふなかわ・みかん、1886-1930)装幀の古書が届いた。

 大正10年に刊行された川田順の歌集「陽炎(かげろう)」。大分色あせている。

 

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 昭和4年に改訂される前のもので、表紙が桃色のグラデーション、裏表紙が水浅葱。裏表で、配色の際立つものだった。

 

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 ともにクローバーらしき三つ葉と花がシンプルにデザインされ、白く浮き出ている。見返しも、水浅葱の地に白のクローバー。

 

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 歌人の川田は、前に西行の研究家として触れたが、住友総本店の重役になった企業人だった。住友に入社して経理畑で仕事をしていた川田が、一高、東京帝大の学生時代に作った短歌をまとめたものが、この「陽炎」。歌集「伎芸天」につぐ第二歌集だった。

 川田は、東京府立城北中の生徒のころから、神田小川町歌人佐佐木信綱宅で短歌を教わっていた。信綱は、短歌結社竹柏会を組織し、機関誌「心の花」を発行。有望な新進歌人の作品を「心の華叢書」として順次発行した。

 川田の「伎芸天」は大正7年に出版され、5版まで重版されていた。「陽炎」以前に刊行された叢書は16冊あったが、重版は4冊きりで、5版は柳原白蓮の「踏絵」と「伎芸天」のみ。世間の注目を集めた白蓮に負けないくらい、川田の作品がよく売れたことが分かる。有島生馬の渾身の装幀だった。

 

 2作目の装幀を未乾が担当したのだった。あとがきの最後で、川田は「恩師佐々木先生の御芳志と、装幀をして下された京都の洋画家船川未乾氏の御骨折りとに対し、一言御礼申し上げて置く」と書いている。「伎芸天」では、「有島生馬君が、多方面の創作に暇なき貴重の時間を割いて、特に此小冊子の為め装幀の労を取られたことに対しても同じ深い感謝の念を捧げる」と述べているのに比べて、淡白な謝辞に見える。

 未乾起用は、川田が指名したのではなく、竹柏会出版部が決めたような書き方に思える。

 フランス留学を前にした京都の未乾画伯は、東京では殆ど知られていなかった。京都で京都帝大の哲学科の教授たちが若き画家を支援していたのは、前に触れた通り。そのなかの中心人物が朝永三十郎教授(ノーベル賞受賞・朝永振一郎氏の父)。

 実は、同氏の甥にあたる朝永研一郎氏が、佐佐木信綱の長女と結婚していたのだった。東京・日本橋の竹柏会出版部が、京都のまだ無名の画家を起用した理由は、朝永三十郎氏が甥を通して未乾画伯を推薦したためではなかったか。未乾をそれほど応援していたのだと。

 

 昭和4年の「陽炎・改訂本」で、川田順は装幀も一新した。表紙は、椿の花三輪。落ち着いた表紙、無難な表紙といったらいいか。

「笹川愼一 装幀」と目立つように印刷されている。住友工作部の建築意匠技師、建築家の笹川氏が装幀したと思われる。川田は、会社の仲間に依頼したのだ。

 

いづればまづ啼く鳥のよろこびと君を見いでし我がよろこびと」 

 

 巻頭のこの歌に象徴される、歌集に散らばる恋歌に応えて、未乾は装幀したのだろう。

 

 川田は、改訂本では、巻頭の歌も次の歌に変えている。

 

吉野山ひとむら深く霞めるや大みささぎのあたりなるらむ

 

 吉野山辺りの御陵を望む風景を歌ったものだ。

 

 大正から、昭和へ時代の空気は変わった。川田は歌集の改訂で変化に反応し、装幀も一新したのだろう。生馬の装幀の「伎芸天」も改訂本で、笹川のものに代えた。

 

 未乾は、学術書の藤井乙男「江戸文学研究」では、思いがけない明るいトンボのデザインの装丁をし、経済界の重鎮の歌集に、少女の好むような淡い色使いで装丁する。なにか、画伯のいたずら心のようなものも感じさせ、もっとこの画家のことを知りたくなる。

 

 欧州留学に同行した未乾の夫人は、京都・東山の鯖姿寿司店「いづう」の娘さんだった。天明元年(1781)創業。ちょうど、俳人・西村定雅が「はなこのみ」を刊行した年にあたる。定雅、土卵らが東山で活躍しだしたころ、鯖寿司の商いを始めたのだった。祇園界隈の花街や町衆の間で評判になったというから、花街の睟人で通った定雅も土卵も、この店の鯖寿司を口にしていたに違いない。