未乾のパリ滞在と石井柏亭「巴里日抄」

 船川未乾画伯夫妻のフランス留学の様子を知りたいと思っているが、たどり着けない。

 滞仏の時期が重なる画家の石井柏亭の2度目のパリ訪問の日記「巴里日抄」(「滞欧手記」大正14年)を見つけた。

 石井の1923年1月から2月の日記には、画家など沢山の在留邦人に会ったことが記されていた(こんなに留学生が居たのかと驚くくらいに)。

 

 画家=藤田嗣治、小山敬三、正宗得三郎、坂本繁二郎、児島虎次郎、平岡権八郎、大石七分、長谷川路可、田邊至、齋藤豊作、黒田重太郎、矢崎千代二、坂田一男、山本森之助、跡見泰。

 京都の画家では、土田麦僊、菊池契月、川端弥之助、国松桂渓、霜島之彦、中井宗太郎(美術評論)らと会っているが、船川の名はない。

 

 柏亭の巴里スケッチ「サンシュルピース広場」

 

 ただ船川画伯とつながりがある人物が出てきた。朝香宮鳩彦親王と画家ロオトだ。

 

 朝香宮鳩彦親王

 

 1月18日の日記。石井は、朝香宮が宿泊していたホテル・マジェスティックで開かれたレセプションに出席した。「軍事研究」を目的に渡仏した親王は、前年12月11日にパリ到着、随員2名とともに、ホテルの8室を借りて豪勢に暮らしていた。

 

朝香宮殿下のレセプションがあるのでそれに出席した。御傍の人は私の誰であるかを問はうとしたが、殿下は微笑されながら『知ってる知ってる』と仰せられた。/画家仲間の出席者は児島君と藤田君、それから正宗君、平岡君位なものであった。平岡君は殿下と御同船した関係があって既に御馴染になって居た。同じ出席者である大住君の誘ふままに、帰途同君の宿へ寄って夕飯を御馳走になった

 

 朝香宮は、石井と顔見知りだったようだ。巴里で活躍していた藤田、児島の両画伯が招かれている。「大住君」は哲学者大住舜氏、気の毒なことにこの年の11月パリで客死している。

 実はこの数か月後の4月1日、朝香宮は交通事故で瀕死の重傷を負ったのだった。一足先にパリで生活していた従兄弟の北白川宮成久親王からさそわれて、同房子妃らとともにドライブに出て大事故にあったのだ。

 パリ西方140キロ辺り。運転していた成久殿下は数時間後に死亡。後部座席に乗っていた房子妃と鳩彦親王は、複雑骨折などの重傷を負い長期の入院生活を強いられた。

 

 船川未乾氏の甥・港井清七朗氏が、「鮭の人生―間人より出でて間人に帰る」のなかで、帰国後の京都での船川夫妻の生活を回想し、パリの宮家の事故について記している(富士正晴「榊原紫峰」)。

 

叔父の渡仏中日本から行っておられた数人の宮様方が交通事故でパリの病院に入院され、叔父夫婦がよく見舞に行き、知遇を得ていた。わけても北白川宮大妃殿下の思召により、大作を買って頂いた話等聞かされた

 

 入院していた朝香宮鳩彦親王北白川宮房子妃を、船川夫妻が度々見舞い、とくに房子妃と懇意になって、画伯の大作を買ってもらうほどになった、ということになる。

 どういう経緯で見舞に行ったのかは皆目見当がつかない。

 

 北白川宮房子妃は明治天皇の第7皇女で、母は権典侍・園祥子。京都の公卿園家の血をひいている。夫を亡くし、心細いパリで治療を受ける同妃にとって、京都言葉を使う船川夫妻の見舞いに癒されたと想像できる。女性同士、咲子夫人の役割が大きかったのだろう。

 7か月入院生活を強いられた朝香宮親王の方は、事故を知った允子(のぶこ)妃が、6月にパリに駆けつけ看病にあたった。允子妃は、房子妃の実妹で、房子妃にとっても心強い来訪だったと想像できる。

 

 実は、石井柏亭も見舞に訪れたことが、「白京雑信」(滞欧手記)に記されていた。柏亭は正宗得三郎とイタリアへ旅行に出、ローマからアッシジへ向かう列車で、イタリア人から新聞を見せられて、事故を知った。パリに戻り、ブリュッセルに向かう時、画家の斉藤豊作宅を訪問し、入院先を知ったのだった。

 

斉藤君の室から新緑の木立を隔てて見えるのがアルトマンのサナトリュームで、其處に北白川宮朝香宮両殿下が入院してゐられるのだと聞いたからお見舞に廻ることにした」と書いている。

私の知ってゐる朝香宮附の武官の藤岡さんは留守だったが、北白川宮附の人に会って御見舞を申上げた」。事故後時間があまり経っていなかったせいか、あるいは簡単に宮様とはお目通りが出来ないものなのか、私にはよく分からない。

 

 船川夫妻は特別だったのだろうか。ふと思ったのは、船川画伯は、京都の美学者園頼三と友人だったことだ。同じ園姓というだけで、なにも根拠はないが、2人の妃とも遠いつながりがあったのかもしれない。

 

 船川画伯の数少ない遺作は、創元社創設者の矢部良策、詩人薄田泣菫とともに、北白川宮家に所有されていたことが分かったが、いずれも現在どうなっているのかは分からない。

 



 アンドレ・ロオト画伯とアカデミー・モンパルナス

 

 石井柏亭は、朝香宮のレセプションの8日後の1月26日に、船川が学んだキュビズム系の画家アンドレ・ロオトの教室を訪問している。

 

朝ロオト氏の教場へ行って見た。モンパルナスの停車場側のリュウ・ヂュ・デパアルにあると聞いたが、其入口があまりに汚いので始めは眼に入らなかった。庭木戸のやうな處に入ると、其處に家畜の小屋があったりする。屋外の階段を昇ってアカデミイ・モンパルナスの教場へ入ると、其處の学生の作品を批評しつつあるロオト氏を見出した。学生は大半を女性によって占められて居る。国松金左氏も其御弟子の一人となって居る。ロオト氏の批評を聴き又其筆をとって正すのを見ると、氏は各個人の性質に関しては頓着するところなく、誰もに対して同じ構成の方則を授ける様に見えた

 

 国松金左氏は、国松桂渓画伯のこと。滋賀県生まれ、京都で活動した。

 石井氏は初め、学び舎の入口の汚いこと、女性の画学生の多さ、学生に対する一様なロオト氏の教え方が気になった様子。耳を傾けていくと、

 

曲線の按排、運動の方向の按排、暖寒色の按排、明暗の按排と云ふ様なことのみに氏は学生の注意を向けさせる。それは絵画の構成上欠く可からざる方則であるが、これは物象の写生に相当の経験ある者が聴いてはじめて有益なる可く、また筆のもち方を碌々分らぬ様な令嬢などが聴いても余り役に立たないのではないかと察せられた。此教場には午後又別にコムポジションのクラスがあると云ふ事である

 

 石井氏は、ロオト氏の高度な内容の授業に気づいたようだ。「相当の経験ある者が聴いてはじめて有益な」ものと理解し、午後のコムポジションの授業にも関心を抱いたように見える。

 

 

 パリの美術界を観察した石井氏は、キュビスムについても詳しく別に書いていた。

以前のやうなキュビズムは今すっかり影を収めてしまった。それはピカソの両面で代表されて居る様に、一方は其単純化を古典的の方向へ運び、他の一方は自然の再現を全く無視した幾何学的形像の調整に向って居る。…アンドレ・ロオトや、ビシェエルや、アクリス…等は後者に属する。(中略)ロオトやビシェエル等は自然物の形象を保ちながら其處に線形色の自由な配合を図ろうとし」ていると、ロオトの目指しているものを捉えている。

 

 船川氏はパリ留学中、この家畜小屋のようなものがある庭先から屋外階段を昇る教場で、ロオト氏から「曲線の按排、運動の方向の按排、暖寒色の按排、明暗の按排」など、貴重な教示を受けていたことが伺われる。「自然物の形象を保ちながら其處に線形色の自由な配合を図ろう」という方向は、帰国後の船川氏の発言と重なっている。

 

 船川画伯は、パリの邦人画家たちとは交流をせず、黙々とロオトの教場で学んでいたこと、そして、事故にあった「宮様」たちの見舞いにも行っていたことがぼんやりとながら分かって来た。