盆の休みを家で過ごす。夕方、近くの川沿いを歩くと、オシロイバナが道端に咲いていた。黒い実もなっている。私は都内で育ったが、オシロイバナが咲くころ、子供たちはこの実を集めて数を競った。さらに、実を爪で割って中の白い粉を集め、鼻に白い線を塗って、「おしろいだ」と遊んだものだ。スマホもゲームもないころは、こんなことで子供たちは時間を潰していたのである。
私はオシロイバナに交じっていた蔓植物に関心を持った。緑の袋がいくつか蔓についていて、見知らぬものだった。細は、「フクロカズラ」だと言い当てた。
さらに、フクロカズラに巻き付かれている小さな紅紫の五弁花に目が行った。かわいい草花だ。「名は分からない」という。
家に戻って、調べてみるとハゼランという1年草だった。
フクロカズラ 豪州など熱帯アジア原産 渡来時は不明
それぞれ草には来歴があって、今たまたま、うちの近所で絡み合って生えているのだ、と知った。
花と言えば、古書肆から届いた長塚節「土」の昭和16年版。表紙は蛙だが、裏表紙は南瓜の花が描かれていた。
調べると、南瓜には、雄花と雌花があるのだった。農家はもちろん、家庭菜園で南瓜を栽培している人たちにとっては、当たり前の、常識らしい。
南瓜は、初めに雄花が咲き、雌花は後になって咲く。受粉させないと収穫が出来ないので、雄花、雌花の観察は大切なのだった。南瓜は雄花ばかりが咲いて、雌花が咲かないことがあるからだという。肥料がききすぎたり、生育がよすぎると、蔓が数メートルに伸びても、雄花しか咲かないことがある。
中川一政画伯の南瓜の絵はどうか。花の真ん中に5つのしべの頭部がくっきりと描かれていた。雄花はしべは一つ、雌花はしべが多数。雌花であることが分かった。画伯は雌花を択んで描いたのだろう。
そう考えると、雌花は、小説の主人公一家の、けなげな長女「おつぎ」の化身のように思えてきた。
改版本の序を書いた歌人の斎藤茂吉は、ズバズバと物言いをする人だとわかった。「土」の表現はさかのぼれば、正岡子規の写生文であり、丹念にくどく描写する子規の教えにそって長塚は書いたので「露はな哲学も無ければ、勇壮なイデオロギーも無く、鮮やかな筋の発展もなく、ねちねちと終った小説である」。
そのため、掲載された東京朝日新聞の読者からも難癖がついた。「それでも読者は今に至るも絶えずに続いてゐる」。あの辛口の「正宗白鳥氏の如きも、この「土」を棄て去ることをしない。」さらに近時、評価は高まるばかりだ、と。(白鳥は「『土』は明治文壇の傑作」と書いた=「作家論」)
茂吉はその理由を考えて、「『土』の作者は晩年に日本美術の気品と永遠性とを説いたが、この『土』では決してさういふことを説いてはゐない。けれどもおのづからにしてその実質を得て、荘子漁父(ママ)篇に謂ふ、「真を守る」の境界上にゐるのではなからうか」。
悩める孔子に問われ、漁夫が返した生き方、それに通じる世界が小説に描かれているからではないか、と茂吉は考えた。
長塚の周辺にいた画家たち、平福百穂、小川芋銭そして森田恒友のたどり着いた「新南画」の世界。私は、それが老荘の境地とは思わないが、長塚のこの写生小説にも、画家たちのその境地が反映していると、茂吉が感じ取っていた事実はとても興味深い。