定雅、土卵と馬琴の交流

 戯作者瀧澤馬琴の長男の妻、路の愛猫ぶりに触れたが、江戸時代後期、江戸の馬琴と京の洒落本作者の交流はあったのだろうか。ふと気になった。

 

 調べてみると、馬琴は81歳の生涯でただ一度、京都に旅していた。享和3年(1803)、36歳の時だった。

 京都には都合24日間過ごしたが、この間、京都の俳人で洒落本作者の西村定雅(当時60歳)や、富土卵(同44歳)と会っていた。

 馬琴は、この旅行で得た情報、知識を「羇旅漫録」(享和3年刊)に記していて、それに2人の名前が出てくるのだった。

 

 馬琴は、定雅から聞いた話として、「嘘譚の名人」を書きとめている。

 

斎藤文次 (元御所官人日向介、四條高倉に住す)といふ人、虚談をもてよく人をわらはしむ。去年七月高槻の町にて、色情の遺恨をはらさんため、盆をどりにて群集せし夜、七十人ばかり人をあやめたることのあり。

 享和2年夏に、高槻で色恋沙汰が原因で、盆踊りで70人が斬られる事件があった。この刃傷沙汰は、京でも話題になり、尾ひれがついて取りざたされた。

 

 文次は、もっともらしく、≪昨日高槻の縁者のもとに行って喧嘩の話を聞いたけど、けが人は3人だけ、事実はこんなものだ≫と断言した。

 話を聞いた友人らは、確かに70人は多すぎると、文次の話に納得した。

 ところがその翌日高槻から人がやって来た。喧嘩の話を聞くと、「けがしたのは確かに70人」であることが判明。文次がまた嘘をついたと、「衆絶倒す」。皆笑い転げたという。

 この文次は以前、正月に世上詩歌管絃なるものを開催し、自分は嘘のつき初めをする。1月11日午時に、拙宅にこぞって来るように案内した。友人たちは、文次の初嘘に興味をもって四条高倉へ足を運ぶと、奥さんが飛び出して来て、文次は朝から出ていって留守ですよと答えた。騙されたと知って、「衆絶倒す」。皆また大笑い。

 

 馬琴は最後に、「西村定雅話、文次今猶高倉にあり」と付記。定雅から聞いた話で、文次はまだ高倉で暮らしていると書いている。

 

 そんなに面白い話ではないし、面白い嘘でもない。嘘つきが元御所官人というのがミソなのだろうか。とにかく、戯作作家と洒落本作家が、たわいない話を交わしていたのだった。

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 富土卵は、「せんず万歳」の項で「土卵」の名が見える。「羇旅漫録」だけでなく馬琴の「蓑笠雨談」でも同じような内容が出てきて、それにも土卵の名がある。

 馬琴は、怪奇物を得意としただけに、神々やら民俗風習に関心を持って、取材していたようだ。「龍頭太(りゅうとうた)」という稲荷大明神縁起に出てくる山の神について記した項の後に、民俗芸能の門付芸「せんず万歳」について触れ、「真葛が原の土卵(北面東□□ 左近衛将監)子の話に」と、土卵の名前が出てくる。(□は読めなかった)

 

 正月の三河万歳の源流とされる「せんず万歳」に馬琴は関心があったらしい。土卵から「せんず万歳ハ(は)千秋万歳の秋をずとよむべし」と聞いた話を記している。

 秋を「ず」と読み、「千寿万歳」でなく「千秋万歳」なのだと語る土卵を、馬琴は、物知りとして信用しているようだ。

「蓑笠雨談」には、更に詳しく「くわしくは千秋万歳法師といふべし」「大和ノ国窪田箸尾乃両村より出復」「三河万歳は別派」と記されている。これも土卵からの教示かもしれない。

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「京都に来る万歳は大抵大和万歳だけ」で、「太夫は扇、才蔵は鼓で両人素袍、壺袴、侍烏帽子の扮装で来たものである」「田植舞、夷誕生、鳥なし十二月舞等があって、所々滑稽を交へるが、品のよいもの」だったと、大正11年に刊行された江馬務「日本歳時史 京都之部」には、大和万歳について書かれていた。残念なのは、「正しくは千寿万歳」と江馬は記していて、「千秋万歳」だという富土卵、瀧澤馬琴の指摘が生かされていないのだった。

 

 馬琴は、京都の秋の虫の音を聞く名所について、記していて、

虫ききには、真葛が原よし。嵯峨は野々宮辺尤もよけれど、道遠ければわづらはし。」 と、遠い嵯峨野・野々宮神社あたりより、土卵の暮らしていた真葛が原を勧めている。実際、真葛が原を散策し、双林寺界隈に住む土卵を訪ねたように思われる。