金印偽造説と高芙蓉の潔白に就いて

 京都東山の真葛が原の住人だった俳諧師西村定雅、富土卵や、双林寺の芭蕉堂などについて調べてきたが、真葛が原には「大雅堂」があり、画家の池大雅(1723-1776)が、画家の玉瀾夫人と暮らしていた。

拾遺都名所図会

 

 蕪村は大雅と交流があり、「平安の一奇物惜しき事に候」と、俳人芦田霞夫への手紙で、画家の訃報をこう伝えている。

 

 大雅について書かれた相見香雨「池大雅」(大正5年、美術叢書刊行会)を読んでみて、興味深い箇所を見つけた。大雅は富嶽立山、白山に数度登った登山愛好家でもあるが、

 

九州の大儒亀井南冥が壮歳京師に遊学してゐた頃、一日大雅を真葛ケ原の草堂に訪ねた、時に大雅適(たまた)ま名山記を誦して居た」

「(大雅は)呵々大笑、終始山岳談ばかりで、更に画事に及ばなかった、それから五六日を経て、再び草堂を叩いたらば、大雅は富士登山に出かけて居なかった

 

 天明年間に福岡・志賀島で発見された「漢委奴國王」の金印を世に紹介した亀井南冥が、宝暦12年(1762)頃、京で学び、大雅堂を訪問した話が残っていたのだった。宝暦年間、大雅は「印聖」と呼ばれていた知友の篆刻家高芙蓉、書家で篆刻家の韓天寿とともに、富士山、立山、白山に出掛け三岳を登頂している。

 

 高芙蓉像(円山応挙画)と芙蓉作の刻印

 

 南冥と高芙蓉の名を目にして、私は、金印が江戸時代半ばにでっち上げられた偽印だったという強烈な著書、三浦佑之「金印偽造事件」(幻冬舎新書、2006)を思い出した。読みながら、あるいは偽印だったかもしれない、と思わせる内容の本だった。

 

漢代の古印の模倣を得意とする高芙蓉と、自ら贋作にも手を染める考証家の藤貞幹が組めば、金印「漢委奴國王」などいとも簡単に作れたに違いない。そして、それは芙蓉と貞幹の二人だけで企んだのではなく、福岡の南冥一派と組んでなされたとすれば、天明四年二月に志賀島から出土することに何の問題もなくなるのである」。

 京の大雅堂に出入りしていた高芙蓉と藤貞幹が偽造に一役買っているとの仮説だった。

 

 藤貞幹(1732-1797)については、偽書が取りざたされ信用できない人物として、一般的にも評価されているようなので、確かめるべく彼の「好古日録」「好古小録」に目を通してみた。どうだろう、集めた史料の膨大さに驚き、どれだけ古物愛好の情熱をもっていた人物か、よく伝わって来た。

古書画ヲ好ンデ、片楮半葉トイヘドモ、必ズ模写シテ遺サズ。金石遺文ヲ索捜シテ、寸金尺石、破欠椀ノ微トイヘドモ、古ヘヲ徴スベキモノハ皆模造シテ捨テズ」(故藤原貞幹略伝)と記されたことは、さらに貞幹の紀行文「寛政元年東遊日録」を読んで実感できたといっていい。(一戸渉「『寛政元年東遊日録』について ―附・慶應義塾図書館蔵本翻印ー」)

 日録には、江戸・駿河台の柴野栗山宅に泊まり、古書の書写ばかりか、松前からクナシリ島までの距離、ゴクラクチョウに脚がないという説が嘘であることまで、杉田玄白(あるいは養子の伯元)らから聞いたものが記されていた。好奇心の大きさに驚くばかりだ。

 

 高芙蓉はどうか。医師を継がず、甲州から若いころ京都に留学し、坊城家で故実典儀を学び、「篆刻の技、妙を得、海内無双と称した」「性質寡欲」の人物だったという(原得斎「先哲像伝」)。

 芙蓉が収集した「漢篆千字文」(寛政8年=1796)に目を通してみた。「原輯」芙蓉が集めたものを、曾之唯應聖が「増補」し、葛張子琴が「校閲」したものだ。

「漢委奴國王」の「漢」の文字をまずは調べた。ごらんの通り、40種類の「漢」を集めていた。

 

 では金印の「漢」はー

 似たもの()はあるが、金印の「漢」は、40種類に含まれていないことが分かった。

 偽印作成に芙蓉が関わったすると、40種類のうちから選ぶだろう。芙蓉の知らない「漢」が金印に使われたということは、この仮説があたらないことを証するものだと考えていいだろう。

 委奴國の「奴」の字は、「漢篆千字文」には収められていなかった。

 また天明4年3月の金印発見直後、まだ公になる前の4月に、芙蓉は水戸藩の分封の宍戸侯から招聘され京を離れ、妻子(妻も画家)と江戸の藩邸に向っていた。到着の数日後の4月24日に、芙蓉は没してしまい、京ではなく小石川の無量院に埋葬されたのだった。

 

 真葛が原の大雅堂に出入りしていた文人の名誉は守らねばならない。江戸中、後期の京の文人は、それぞれ手探りで学問分野を切り開いていった相当な人物たちだったように、私には思える。