復古の動きと二条家俳諧

 猫がテレビに夢中になっている間、天明8年(1788)の京都の大火について、少し考えてみた。

 

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 京の俳諧師でもっとも被害を被ったのは、夜半亭を蕪村から継承した三世高井几董だった。御所近く椹木町通りの家を焼かれ、予定した「井華集」の板木も焼失。大坂へ転居。門人たちに誘われて、須磨、吉野と尋ねたが、翌年に急死した。

 難を逃れたのは、東山の真葛が原周辺の俳諧師だった。雙林寺境内の芭蕉堂は無事だった。被災翌年、几董は真葛が原へ高桑闌更、西村定雅を訪ねている。どんな会話がなされたのだろうか、今となっては分からない。

 

 京を燃やしつくした天明の大火では紫宸殿、仙洞御所などのほか、公家屋敷も灰燼と化した。御所の北方、二条家今出川邸も焼けた。

    いずれも再建には2年以上かかったが、二条家は御所より先に完成したようだ。御所に光格天皇が戻る前に、二条治孝二条家俳諧の初の句会「花御会」を新しい邸で開催した。

 寛政2年(1790)9月5日。俳諧宗匠の免許を得た暁台、月居が紫の水干、白指貫、風折烏帽子姿で、執筆、主事の役目の俳諧師らと、治孝の御前に臨んだのは、新築の今出川邸の、寝殿の北面、あるいは寝殿に接した西方の建物だったと思われる。

 歌道の公家とされる五摂家二条家は、大火からの復興の初めに、全国的に広がる俳諧ブームのなか、松尾芭蕉の精神を受け継ぐ蕉風だけが価値あるものとして、「正風中興」を旗印に「二条家俳諧」を始めたのだった。和歌の公家が、大衆文芸の俳諧師宗匠免許を与えるという画期的(前代未聞)なものだった。

 

 光格天皇は、大火の時は17歳だった。下賀茂神社に脱出し、聖護院を仮御所として過ごすことになった。年少のころから、古代律令制への復古思想を育んだ天皇は、大火後の復興を自分の考えを示す好機と捉えた。

 まず、天皇は、新御所は、復古的に造営することを決意。関白鷹司輔平左大臣一条輝良とはかり、経費削減を進める幕府の担当、老中松平定信を相手に強く主張してしぶしぶ合意させた。

 復古イベントも企画した。火災からほぼ3年、寛政2年11月22日、聖護院から新御所へ戻る遷御の儀式を格好のチャンスとした。古代朝廷儀式に則り、鳳輦にのった天皇を運ぶ行列は、京の人々の目に留まるように、一旦南に下って三条大橋を渡り、万里小路を北に上って、清涼殿に入る4、5時間もかけたものだった。古代絵巻の再現を演出した催しは、事前PRがきいたか、松阪から国学者本居宣長も見物に来たという。(伊藤純「隠岐国駅鈴と光格天皇大阪歴史博物館研究紀要2017)

 

 伊藤論文によると、光格天皇は幼少のころから記紀、和歌などを学び、復古の思想を育てていた。「殊に御学文を好ませ給ひ、わが国に歌道、また有識の道に御心をつくさせた給ひ」と「小夜聞書」に記されているのだという。古代儀式を次々に復活させた天皇は、当然のように歌道を重視していたのだった。光格天皇の復古の動きは、その後の明治維新へ至る動きの出発点として、歴史的に認知されている。

 

 寛政2年、王政復古の動きをする光格天皇と、和歌の伝統に縛られず、大衆文化を取り込もうとする二条家と、別の方向を進んだとしか思えない。二条治孝俳諧では希伊と号したらしい。暁台は、天明4年(1784)焼ける前の二条邸にも招かれ、希伊は「あまつたふ星のみかげになくちどり」と句を作ったという。興味深い人物だ。

 

 復古を目指す光格天皇には、このような二条家の振舞いはどう映ったのだろうか。文化2年(1805)、二条治孝の関白昇進を前に、光格天皇が「非器」として、断固拒否したことにあらわれていると思う。

 

 文化5年(1808)、長崎に英国軍艦フェートン号が侵入し、オランダ商館長ドゥーフ(西洋人で初めて俳句を作った)が避難するなど、日本開港に向けた大国の動きが活発になって来る。

 

 寛政、享和、文化、文政と、俳句を中心に京を俯瞰すると、時代を先取りして王政復古をアピールする光格天皇が出現する一方、摂家二条家は大衆文化・俳諧を取り込みにかかる。二条家宗匠の看板を得て闌更、蒼虬は東山の芭蕉堂を拠点に地方にネットワークを広げ、その周辺で定雅が画家岸駒も巻き込み俳仙堂を設立する。一連の俳諧師の動きを上田秋成は批判的に観察している。「俳かいをかへりみれば、(松永)貞徳も(西山)宗因も桃青(芭蕉)も、皆口がしこい衆で、つづまる所は世わたりじゃ」(文化6年「胆大小心録」)

 

 やがて、尊王攘夷の嵐が、京にも吹き荒れ、半世紀後(1863年)新選組が設立される。俳諧を全国に広めるのに寄与した伊勢講からは、倒幕につながる「おかげまいり」「ええじゃないか」が巻き起こる。

 少しずつ、調べていきたい。