住吉で出会った天明の2俳人

 林業に詳しい人物から、江戸時代江戸の町は大火事が多かったので、江戸の再建に大量の木材が必要だった、そのため幕府は奥多摩の森林資源と秩父方面の森林資源の2地域を確保していた、と聞いた記憶がある。

 奥多摩地区で100年間伐採、その後は秩父で100年と、100年のサイクルで供給地を交替する構想だったそうだ。森林育成には時間がかかるため、幕府は長い時間軸で将来の対策を考えていたというのだ。江戸時代の森林行政は大したものだと感心したのだった。

 

 江戸時代の京都の俳人を調べていて、京都でも「天明の大火」があったことを知った。天明8年(1788)正月30日(新暦3月7日)。鴨川の東の宮川町の町家から出火し、火は鴨川を越え、御所、二条城、京都所司代も焼き、2日後やっと鎮火した。町の8割が被害を受け、応仁の乱より広い地域が灰になった。

 

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 京は、江戸初め、豪商角倉了以大堰川改修、東高瀬川開削を行い、河川による流通のインフラが整備されていた。大火後の木材も、丹波材が嵯峨まで筏で運ばれるルート=写真=と、駿河材、木曽材など全国の木材が、商都大坂から淀川、東高瀬川のルートで運ばれたようだ。それでも材木は不足し、幕府は丹後の天領の村へ木材供出のお触れをだしたという。(本吉瑠璃夫「近世の京都と木材」=「京都の林業423」平成6年)

 

 復興の目鼻がつくまで3年はかかった。御所から焼け出された光格天皇は避難先の聖護院で3年暮らした。京の俳人では、蕪村はすでに鬼籍に入っていたが、後継者の高井几董(当時47歳)が御所近くの椹木町通りの家を焼かれ、岡崎の塩山亭に鴨川を徒渉して避難した。予定していた句集「井華集」の版木も焼かれた。

 

 几董は大坂に転居してしのいだ。消沈した几董を元気づけようと、門人たちが駆けつけ、気分転換の旅に誘い、秋に須磨明石、翌春に吉野山へと繰り出すのだった。

 

 須磨明石から戻った後、几董は、月見に住吉の浜へ向かい、住吉大社に参詣。茶屋で偶然、大坂の俳人大伴大江丸(66歳)と出くわした。

 大江丸は、大坂の飛脚問屋を継いだ経営者の俳人だった。江戸と大坂を何度も往復、高崎など上州の拠点を足しげく回り、奥州福島に出向いて東北ルートを確保整備した優秀な企業家だったようだ。

 当時の飛脚業は、取次から取次へとネットワーク化が進み、依頼荷物を町や村の指定場所まで届ける便利なシステムが構築されていたという。飛脚取次所が主要街道ばかりか、脇往還でも営業されるようになったためで、大江丸も出張して取次所の管理指導に奔走したようだ。(参考・巻島隆「江戸の飛脚」2015年、教育評論社

 

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 几董と出会った時、大江丸は地元の住吉大社のために一肌脱いでいた。天明年間に住吉の境内の松が枯死した。再生するために、松の苗を植えて、もう一度見事な松の林を作るしかない。相談を受けた大江丸は、松の苗木の寄付集めのため、寄付者の和歌、俳句、漢詩など御自慢の作品も奉納してもらい、「松苗集」にまとめて発刊することを考えたのだった。

 アイデアは的中し、その後、松苗集が14巻まで出るほど成功した。

 

 几董は、そんな事情は知らず、住吉まいりに寄ったのだった。几董の「遊子行」(天明8年)によると、あいさつもそこそこに、大江丸は茶屋の媼(事務局の高齢女性といったところだろう)を呼んで「とちふみ」(松苗集)を出させて説明する。

 話を聞いた几董は、「さはやさしきことなめり、おのれも苗のぬしに加はらんと、やかてそのふみにかいつく」(それはたやすいこと、私も松苗の主に加わりましょうと、ちょっと経って句を書き付けた)。

 

 松苗やゆくゆく月のかかる迄

 

 大江丸は「旧國(ふるくに)」の名で

 

 誰植し松にや千代の後の月

 

と続けたという。

 

 今も大江丸を顕彰して住吉大社では4月に俳句を奉納する「松苗神事」が行われているが、大江丸ばかりか、几董ら同時代の俳人たちも協力していたのだった。

 天明期の俳人たちもまた、植林した松苗が育つ数十年、百年先のことをイメージできる、いたって健全な精神を持った人物であったことが伺われる。

 

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7年後に大江丸が描いた住吉の松と月「松に月松に月これすみよしか」の句が添えられている(「秋存分」寛政9年刊)