ふなかわ・みかんの装幀本

 天明期の京の俳人富土卵(とみ・とらん)の手がかりを求めていくと、親交のあった俳人西村定雅に行き当たった。土卵は、京で人気だった定雅の洒落本に影響を受けて洒落本を書いたとされ、二人は京都東山の雙林寺の門前で近所付き合いをしていた。

 大正時代に「江戸後期の京阪小説家」と題して、定雅のことを記した国文学者・藤井乙男氏のことを知って、文章が収録されている「江戸文学研究」(大正10年=1921年、内外出版)を取り寄せた。

 

 堅苦しい本を覚悟していたのだが、本の装幀に驚かされた。函から取り出すと、トンボと草花の軽やかなデザインの本が飛び出した。

 

 タイトルの次頁の中央に、「装幀 船川未乾」と印刷されていた。

 

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「ふなかわ・みかん」。「幻の洋画家」といわれている人物の装幀だった。

 

 1886年京都に生まれ、上京して中川八郎に洋画を学び、20代後半に京に舞い戻った。寺町の文具店で個展を開くと、深田康算、朝永三十郎教授ら京都帝大の教職員、学生が支援し学内で個展を開催した。京都の大丸呉服店で行われた公演では、背景画を任された。1922年に夫人と渡仏、パリで洋画、エッチングを学び、留学後半は南仏で過ごした。1924年に帰国。東京・丸善で個展を開き、飛躍が期待された時期に、乾性肋膜炎に罹り、1930年京都で亡くなった。享43。(「版画堂名覧」参考)。

 

 大正・昭和初期の短い活動だったが、本の装幀を数多く残した(川田順「陽炎」など)。渡仏の前年に刊行されたこの「江戸文学研究」の著者藤井氏は、正岡子規の知人で、京都帝大で日本文学を教えていた。藤井氏も、未乾の大学内の支援者の一人だったと考えられる。

 

 深田康算教授は、東京帝大の英知とされた哲学者ケーベル博士に師事、独仏留学後、京都帝大哲学科で美学美術史講座を開いた人物だった。おそらく深田教授が未乾画伯の才能を認め、旗振り役を務めたのだろう。(深田氏は未乾逝去の2年前に腹膜炎で没した。)

 

 未乾自身も、周囲の人間たちが、応援をしたくなるような人柄だったのではないか。朝永三十郎ら錚々たる哲学者が支援したのは、よほどのことと思われるからだ。

 

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 もう一度、装幀を見直すと、ベージュのクロスに、濃淡を付けた茶で菱枠を描き、枠内には深緑のトンボ、草花。さらに、トンボ、花の上、下に萌黄をほんのり添えている。

 

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トンボは函のデザインにも用いられていた。

みかん画伯の装幀本も、追いかけたくなってしまった。