五代目市川團十郎には猫の逸話はなさそうだったが、五代目が狂歌で名を出した鯛屋貞柳の作品を調べていると、西行の銀猫の逸話を狂歌にしているのを見つけた。
平泉に向かう西行が途上の鎌倉で頼朝から銀作猫を貰ったが、遊んでいた子供にあげてしまった話は、なんども書いて来た。貞柳の狂歌は
小童にやりし所かきたる絵を見て
西行に衣は似れど身はうしやかねならなんの人にやろにゃん
貞柳は、絵を見て歌を作ったのだった。西行の銀猫をテーマにした絵は、松村呉春(1752-1811)、長谷川雪旦(1778-1843)、菊池容斎(1788-1878)ら江戸後期以降の画家のものだとばかり思っていたが、鯛屋貞柳は1654-1734の生涯なので、彼らの作品ができる前に没していた。もっと前の画家の作品を見ていたことになる。
≪狂歌師の自分は、西行法師の法衣に似たようなものこそ着てはいるが、法師と違って憂き身をやつして暮らしていることよ。銀猫でなくおかねを貰ったら誰にあげたらいいのかにゃん≫
高価なものでも銀猫なら子供にあげるとして、お金をもらったらどうしたのだろう、という素朴な発想と、「やろにゃん」という表現が面白い。
貞柳が西行を狂歌に仕立てたものがほかにもあった。西行をかたどった京都・伏見人形を見つけた時のものだ。大坂から伏見へ川を上った時のことなのだろうか。伏見街道の土産物店で売られていた、西行の人形を見つけて興がわいたようだ。
伏見海道にて土人形を見て
西行に又逢へしとおもひきや 命なりけりふしみ海道
なけ(げ)けとて土屋は物をおもはせる ああ西行はこんな坊さまか
西行は土もてゆかし見世さきに しは(ば)しとてこそ立と(ど)まりけり
伊藤若冲(1716-1800)が伏見人形の絵を多数残している。多くが「布袋」の人形だが、西行と思われるものも描いている。布袋の前で、緑の袋を背負い笠を持って立っている。(「若冲画選」昭和2年、恩賜京都博物館編輯)
貞柳が見た西行人形はこういうものだったと想像させてくれる。
さて、伏見稲荷大社の土産として生まれた伏見人形は、江戸の初めごろから人気を呼び、各地で似たような土人形、張子玩具が作られるきっかけとなったとされる。
狐、福助など縁起ものが各種作られ、江戸後期に最盛期を迎えたという。團十郎とも縁があり、幕府の節約令違反で、天保13年(1842)江戸十里四方追放に処された七代目團十郎は、赦免されて戻る際、伏見人形の窯元に成田屋の十八番「助六」「暫」「矢の根」の人形を大量に注文し、江戸土産にしたと伝えられている。
「大阪辯」から
猫の伏見人形はなかったのだろうか。伏見に影響されて作られた大坂人形には猫の土人形が伝わっている。住吉大社の「初辰猫」だ。
「明和年間に北尾安兵衛という者があって、伏見で人形の製作を習い、その後住吉に移り住んで土人形を始めたという」「もっとも有名で人気だったのが「初辰猫」であった」(浅田柳一「郷土玩具に偲ぶ浪花の面影」昭和25年「大阪辯・第5輯」収録)
住吉境内にある末社楠珺神社は「はったつさん」と呼ばれ、毎月初辰の日に、羽織姿の招き猫を求めて多くの商家から参詣があった。「初辰」の参りは、商売が「発達」するにつながると信仰が広がったという。1回につき猫1体、48か月通って48体の猫が揃うと満願成就するというものだ。今でも招き猫「初辰猫」は続いていて参詣人は多い。
北尾安兵衛が初辰猫を初めて作った時と、住吉大社に大伴大江丸の出入りしていたころと時代は重なっている。
明和年間 1764-1772
大江丸 1722-1805
大江丸は晩年、82歳の時、虎の上に金時が乗った「玩具図」を自ら描いており、人形玩具に関心を持っていたことは確かだ。
飛脚問屋を経営し江戸から東北と、自ら各地を飛び歩いていた大江丸は、街道筋の情報はお手の物だった。初辰猫の誕生にも関係があったとしたら面白いと思った。
大江丸 → 三代目團十郎 → 鯛屋貞柳 → 西行 → 伏見人形 → 七代目團十郎 → 住吉大社初辰猫 → 大江丸
話がつながって、円を描いているようだ。