来山の女人形と定雅の竹婦人

 茶人で茶の本を多く残した高原慶三(1893-1975)が、俳諧師西村定雅と大伴大江丸のことを取り上げて書いていた。

 高原の茶人としての考えは、利休以来、茶道に侘びが重視され、艶が忘れられている、「艶なればこそ侘がある、侘あらばこそ艶がある」のであって、「茶禅一味」もよいが「茶艶一味」でありたいとしている(「数奇人」昭和11年、河原書店)。

 精神性より、粋を重視する流れで、定雅、大江丸を評価しているのだった。大江丸はともかく、定雅は確かに当たっている。

 



 本のなかで、定雅の「竹婦人」の画賛を紹介していた。京の俳人藤井培屋の所蔵品だったという。

長庚がうつし絵、来山が土人形、さにはあらで、夏の翆帳にこえて愛する君あり、名を竹婦人といふ」とはじまる。

 長庚(与謝蕪村)のうつし絵、小西来山の土人形とは違うが、夏の閨でずっと愛しているのが、竹製の抱き枕であると。

  擬人化して、讃えている。「江影蛾眉の粧ひもなく、綾羅錦繍のもの好みもあらねど」化粧っけがなく、おしゃれをするわけでもないが、「雲雨巫山のごと連理比翼のまじはり」、離れがたい間柄に。どけて背を向けて寝ても恨まない、ほかで仮寝しても悋気(焼き餅)しない。ただ、物を言わないので、だれと夕烏を口実にして閨に向かい、だれと明の鐘をうらめばいいのだろうと。

 片足、片腕を載せて寝て、涼を取る抱き枕は、アジア文化圏に広がって愛用されて、俳句でも夏の季語になっている。

 

 私は、竹婦人と同じように、閨で愛された蕪村のかくし絵、来山の土人形が気になった。来山の土人形はすぐ分かった。

「人形雑誌」(明治44,雅俗文庫)

 

 前に山白散人「睡餘小録」を紹介して、謎の山白散人は西村定雅ではなかったか、と推理したことがある。その著の中に、来山が愛した人形図と、来山の俳文「女人形記」が紹介、再録されていたからだ。

西行法師に銀猫を給ひけるに門前の童子にうちくれた」話が知られるが、自分は「路にてやきものの人形にあひ懐にして家に帰り昼は机下にすへて眼によろこひ夜は枕上に休ませて寝覚の伽とす」。

 西行銀猫の逸話を初めにふってから、見つけた女人形に一目ぼれして、家に持ち帰り、昼夜一緒に暮らしていると俳文にしている。

 同じ人形でも達磨と違い、咎もない自分を睨みつけることもない、人形だから「若後家なりとも気遣ひなし、舅は何國の大工そや」と記している。(気味悪いとはいうなかれ)

 

 さらに興味深いのは、閨に飾る蕪村のうつし絵。これはなんなのだろう。文人画の蕪村に美人画があるのは知らない。蕪村が画号長庚を名のったのは、1760-1777年ごろ。調べると、京に住む前、1754-1757年に丹後で暮らした40代初め、「静御前図」を描き「雪の日やしづかといへる白拍子」という画賛も残していた。

 

 定雅と蕪村の交流は、定雅の兄美角の残した唯一の俳書「ゑぼし桶」(1774)で伺える。美角、定雅の兄弟は、大坂経由で京を尋ねた暁台を迎え、蕪村、高井几董らと芭蕉追善の句会を催した。その後日、暁台を連れて蕪村を除く一同、高雄へ紅葉狩りに向かい、蕪村へ紅葉一枝を届けたのだった。

 定雅は蕪村の門下ではないが、こうした交流はしていたのだった。

 

 蕪村のうつし絵とはなんなのだろう。頼朝の前で舞う「静御前」の絵ではなさそうだ。思わせぶりな定雅の画賛がなんとも気になる。

 

 私は「睡餘小録」の著者山白散人は、定雅だと推理し、変名ばかりか、多くの仕掛けを残した一筋縄ではいかない人物だと思うようになった。

 来山の俳文はともかく、掲載された「十萬堂遺物の女人形」の真贋は分からない。「睡餘小録」に掲載された「芭蕉の蛮刀」同様、眉に唾をつける必要があるかも知れない。