真葛が原の風の咎

「京師の人物」と題して、瀧澤馬琴は、「羇旅漫録」に記している。

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京にて今の人物は皆川文蔵と上田餘斎のみ」。享和2年(1802)に京を旅した馬琴は、この二名しか、京に同時代の文人はいない、と語りだす。

「餘斎は、浪花の人なり、京に隠居す」と注をつけている。

 

 つまり皆川淇園上田秋成のみだと。享和2年、儒者の淇園は、学問所弘道館の設立を前に、中立売室町で門人を受け入れて育てていた。松浦静山ら大名を含む3000人の門弟がいたことで知られるが、馬琴は「しかれども文蔵は徳行ならざるよし聞ゆ」と書いている。

 秋成は、寛政5年に京に移転し、知恩院前袋町、南禅寺山内、東洞院四條など転々とし、当時は寺町通広小路下ルの羽倉信美邸にいたようだ。京の俳人で交流のあった蕪村、几董ともに鬼籍に入り、馬琴は秋成が「世をいとうて人とまじはらず」と記している。 

 秋成は、俳句も作ったので、当時の二条家俳諧にも思う事があったに違いない。死後刊行された「癇癖談(くせものがたり)」に以下のような箇所がある。

 庭に来る駒鳥が、濁った世の中とは交わろうとしない主人(秋成のことだろう)に対し、自分だけは別だと考えるのは「一人天狗の行い」だと説教し、濁るといえば悪く聞こえるが、世の中というものはこんなものだ、と例を挙げる。

花見嫁入の晴着はいつか壬生狂言のおどりの衣裳となり、俳諧師のあたまに烏帽子がとまれば、神の玉垣きよめる七五三縄(しめなわ)は関取の褌にまとう

 晴着がなれの果てに壬生狂言の舞台衣装に変わり、神社のしめ縄がまわしの上に締められ(横綱)土俵入りの綱になり、そして、烏帽子がついには「俳諧師の頭」につけられるようになるのが、世間なのだと。

 二条家俳諧宗匠になった俳諧師の暁台、月居が、免許服の水干を着て、風折烏帽子を頭につけたことを揶揄しているとしか思えない書き方だ。

 

 「京師の人物」に戻ると、「蘆庵は故人となりぬ。画は月渓と雅楽介のみ。蘆庵応挙もおしむべし」と続けている。

 国文学者で歌人の小沢蘆庵は、馬琴上洛の前年に他界、円山応挙も亡くなって、画家は四條派の始祖松村月渓こと呉春(1752-1811)と、雅楽介こと、(虎の絵の)岸駒しかいないという。同時代人では、馬琴が認めるのは、皆川淇園上田秋成、呉春、岸駒だけなのだった。

 

 京に滞在中、都の文人の驕りを馬琴は感じたようだ。「凡そ京師の文人、見識甚だ高上、情才に過ぎたり。文学の事、京師の外みな村学と称す。しかれども是を説話するに、三ッのうち二ツは甘心しがたきこと多し。夫都会の人気おのづからみなかくのごとしといへども、京師尤も甚し。文人多くは風狂放蕩、是またこの地の一癖のみ。

 

 その後も馬琴と交流が続いた定雅、そして馬琴の文章に登場する土卵も、京の特徴の「風狂放蕩」の一群に含まれてしまうのだろうか。

 

f:id:motobei:20220218203335j:plain「都林泉名勝図会」でも銅脈は、胴脈と書かれている


 注で、馬琴は付け加えている。「京の人に滑稽なし、自笑、其碩と、近年胴脈とのみ。浮世草子の八文字自笑(?―1745)、江島其碩(1667-1736)、それに狂詩・滑稽本の銅脈先生(畠中観斎、1752-1801)だけは滑稽が分かっていると。

 そして、「むべなるかな、ばせをも蕎麦と俳諧は京の地にあはずといへり」と結んでいるのだった。

 

 この銅脈先生とともに、東西の大家とされたのが江戸の大田南畝。南畝が土卵にあて狂歌を作っているのを知った。

真葛が原にすめる狼狽窟のあるじによみてつかはしける」と前書きしている。

 江戸にも、富土卵は知られていたことが分かる。

長き日のあしにわらびの手をそえて真葛が原も風のとがなり

 新古今集慈円の歌「わが恋は松を時雨の染めかねて真葛が原に風騒ぐなり」をもとに、土卵にからかいながら挨拶しているようだ。

 

 紅葉を急かす時雨も松葉を紅く染められないものだから(相手の心がなびかないから)葉裏が見える(うらみの)真葛が原の風が私の心にも吹いているー慈円の歌はそんな歌らしい。

 おみ足に手を添える狼狽窟先生の描く艶めかしい花街の色恋は、騒がしく吹いて蘆(足)に蕨の手を触れさせる真葛が原の風の咎なのでしょうとでも解釈すればいいのか、着物を捲りあげる裏見の真葛が原の風の仕業を想像すればいいのか、「長き日の」の言葉と共に、私には解釈できない。

 

 大坂の俳諧師大伴大江丸の紀行に登場した、私には未知の人物富土卵を追いかけて、雙林寺門前の隣人定雅を探り、いつの間にか深入りして、真葛が原で迷子になってしまったようだ。