長庚(蕪村)のうつし絵と松茸

 西村定雅が書いた「長庚(蕪村)がうつし絵」のことが、ぼんやりながら分かってきた。

 

 蕪村は天明3年(1783)に亡くなる直前に、宇治田原を訪ねたことを俳文「宇治行」に記していた。

 山里で茸狩りをしたものの、皆は先を争って探しに出て、蕪村は遅れをとった。

予ははるかに後れてこころ静にくまぐまさがしもとめけるに菅の小笠ばかりなる松茸五本を得たり

 出遅れもなんのその、蕪村は探し求めて松茸を5本も見つけたのだった。菅の小笠(おがさ)ばかりなる、というから径が20㌢以上はある大きなものだったようだ。

 

 その時、蕪村は「宇治拾遺物語」に出てくる丹波篠村の平茸の話を思い出した。篠村では毎年大量の平茸が生えていたが、ある時村人たちの夢に二、三十人の法師が出て来て、村を出て行く挨拶をした、不思議な事にその後平茸が全く生えなくなった、という話だ。

宇治大納言隆国の卿はひらたけのあやしきさた(沙汰)はか(書)いとめ給ひてなど松茸のめでたきはもらし給ひけるにや。

 宇治大納言隆国は、丹波のひらたけの怪しい話は書き留めたのに、なぜ宇治のめでたき大松茸のことを書き洩らしたのだろうか。

 そして一句「君見よや拾遺の茸の露五本

 

 

 この蕪村の小笠ほどの大松茸の話は、面白おかしく巷間に広がったようだ。蕪村が池大雅に当てた本物と見まがうほどの「偽書簡」に、大松茸が出てくる。

「十便十宜帖」を共作した大雅が蕪村に松茸を贈った返礼に、蕪村が月渓、月居とともに、大雅夫妻を食事に誘っている体裁になっている。

 

愚老無為にくらし申候、しかれば長さ〇さともに一尺あまりの古今未曽有の珍敷見事なる大の松茸一本御恵投被下、有がたし、是は何国の産物、何よりの御到来に候や、愚老此年まで如斯のしたたかなるもの見請けず」。

 30㌢余りの松茸を1本、届けて貰った蕪村が、どこの産かと驚いて聞いている。小杉放菴は「池大雅」(昭和17年、三笠書房)でこの書簡を真筆だと信じて紹介している。

愚老案ずるに、斯は丹州弓削村か、また河州弓削村の辺の山中より生出たるものとこそ存じ」と文は続く。

平生の蕪村を裏切る破格な狂味を帯びてゐる。甚だ信憑し難いのである」と河東碧悟桐は、書簡が偽物だと気づいた。(「画人蕪村」昭和5年、中央美術社)。弓削村の弓削は弓削道鏡の弓削にほかなるまい。

 

 京では、蕪村と大松茸が独り歩きしてしまったようだ。

 こうなると、西村定雅が竹婦人の画賛にしたためた「長庚(与謝蕪村)がうつし絵」とは、蕪村が宇治で得た大松茸の写し絵のことと想像できる。

 

 蕪村は俳文を見る限り松茸の画は描いていない。京の巷間で広がっていった話を、蕪村の没後十年以上たってから定雅は気楽に記したのだろう。俳諧師というより洒落本作家としての定雅の顔が出ている。

 

 蕪村の逸話と全く無関係ながら、漱石の著書の装幀でしられる画家津田青楓が「まつたけと栗」を描いているのを思い出した。書棚から「線描蔬菜花卉第二画集」(昭和9年)を取り出して見ると、とても上品な作品だった。