京洛

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太子山の斧はラブリュスなのか

夏が終わった。今年も、京へはいけず、祇園祭、五山の送り火も見ることがなかった。藤井乙男の「妙法も舟もややこし大文字」の句を思いつつ、youtubeで送り火のLIVE中継を眺めた。藤井氏は船川未乾が装幀した本の著者であって親しみがあり、また…

九雲堂主人の女将多佳女について

AIとのやりとりで日々を過ごしているが、今回はAI抜きでやってみることにした。かねてから書いている画家森田恒友、彫塑家今戸精司らの、明治末から大正始めにかけての知られざる関西での活動について、新たに判ったことを記すことにした。 明治45年5月…

三世瀬川菊之丞と狼狽散人

京都東山の俳諧師で洒落本作者の富土卵は、歌舞伎役者の三世瀬川菊之丞とも懇意にしていたようだ。菊之丞と言えば、女形の名跡で知られ、写楽の浮世絵で今でも親しまれている。 その菊之丞が高瀬川路考(俳名は瀬川路考)の名で、「仮名手本穿鑿抄」を文化元…

芝翫をめぐる蜀山人と土卵

享和3年(1803)に京を訪れた滝沢馬琴と出会って以降、東山・真葛が原に住む俳人の富土卵は江戸に戻った馬琴と書簡のやりとりをしていた。 国立国会図書館に土卵から曲亭(馬琴)に当てた書簡が収蔵されている。それによると、貼紙に次のように記されて…

土卵の不思議絵の元ネタについて

江戸時代中後期の京都の俳諧師で戯作者の富土卵(とみとらん)が、下級公家下毛野敦光であり、近衛府の随身として最後は近衛将監、従五位下となり、「最もえらい洒落本作者」として京では知られていた、ことは前に記した。 下毛野家という、鷹飼渡の儀礼を勤…

殿上人をギャフンをいわせた鬼貫伝

大伴大江丸が残した上島鬼貫の逸話は、俳諧師夏目成美の「伊丹鬼貫伝」に記されている。 伊丹の造酒家の三男鬼貫(1661-1738)は、実家が公家の近衛家の領地だったこともあり、京都の近衛家に出入りすることがあったのだという。 当時近衛家は近衛…

富土卵の言葉遊びと不思議な猫の絵

京の洒落本作家で俳人の富土卵(とみ・とらん)が「狼狽(うろたへ)散人」の筆名で書いた「花實都夜話(かじつみやこやわ)」(寛政5年=1793)で、不思議な挿絵を見つけた。 おそらく本人が描いたのだろう。やかんや庖丁、鍋、釜、擂粉木などの絵は、…

梅宮社祢宜が書き残した「まづあるじゃげな」

橋本経亮をおっちょこちょいと書いたが、私の方がおっちょこちょいだった。 法隆寺の出開帳は、そうたびたび京都では行われていないのだった。伽藍修復の資金集めのために、江戸時代を通して京都は江戸とともに2度行われたにすぎない。 元禄7年(1694…

ダン王の黒猫と法隆寺御開帳

猫で有名になり、今では猫目当ての参拝客で賑わう洛西の梅宮大社であるが、江戸時代この神社には国学者の橋本経亮(1755-1805)という神官がいた。 経亮は、随筆集「橘窓自語」を著し、その中で京都三条大橋の近くにあった「ダン王」こと檀王法林寺…

月の出づべき山もなし 

遊びに来た3歳の孫娘と屋上で皆既月食を見た。双眼鏡でうまく月が見られなかったせいもあってか、飽きてしまい「かくれんぼしよう」といってぱたぱたと屋上を走り回る。月が全部隠れたと伝えると、「お月さんが可哀そう」といってまた走り出した。 皆既食は…

左団次のページェントと歴史学者の証言

「漢委奴国王」の金印について、なぜ本物の金印が2つ存在するのだと、意味深な文章を書いた学者がいる。東洋史学の宮崎市定京大名誉教授(1901-1995)。92年刊行の新書の一節で目にした私は気になって仕方なかったが、詳しいことはその後も書か…

ハンベンゴロウと林子平

久しぶりに知人と渋谷道玄坂の店に繰り出した。若い男女の人波をかいくぐって、坂を上っていった。店の客は年配ばかり。女将さんもかっぽう着姿。渋谷にいることを忘れさせた。 おでんがあったので、はんぺんを頼んだ。「ハンペン」と口に出しながら、「ハン…

70歳の白箸翁と深草の土器翁

事務所近くの理髪店は主人を入れて3人が働いて居る。客としては、誰に当たるかで、若干髪型が違ってくる。3人のうち、ひと月位経っても、髪型が崩れないのが唯一人の女性理髪師だ。 今回店に行くと、その女性がおらず2人で回していた。主人は「病院へ検査…

高山彦九郎「京日記」から見えること

上皇さまが皇太子のころ、来日音楽家の御前演奏会の手伝いで東宮御所に入ったことがある。ガラス張りの広間で、指揮者の渡辺暁雄さんの司会者で、両陛下と数十人のお客さんが鑑賞するなごやかな会であった。 演奏後、歓談の場があって、招待を受けていた旧知…

秋里籬島と藤貞幹の密かな関係

江戸中後期に多くの名所図会を編輯した秋里籬島という人物も謎が多い。 藤川玲満氏の「秋里籬島と近世中後期の上方出版界」(14年、勉誠出版)を取り寄せた。同書によると、近年秋里の出自に関する史料が発見され、祖先は鳥取市にあった因州秋里城主に仕え…

ほろ苦い立原翠軒の上洛

ささやかな地異は そのかたみに 灰を降らした この村に ひとしきり 早逝した昭和の詩人立原道造の「はじめてのものに 」は、いまも出だしだけは覚えている。浅間山の小噴火で、ふもとの村に灰が降ったのを、こんな風に表現するのだった。 同じ学び舎で建築家…

不思議な鳥瓶子と貞幹

「都林泉名所図会」(寛政11年)で真葛が原の俳諧師西村定雅、富土卵の作品を取り上げた秋里籬島のことを前に書いたが、彼は好古家で考証学者の藤貞幹とも接点があった。 秋里は、安永9年「都名所図会」6巻を刊行し大ヒットを飛ばした人物。都の東西南北、…

那須國造碑と藤貞幹

江戸後期の京都の考証学者、藤貞幹のことを考えてみる。 彼の「好古小録」(寛政7年、1795)に掲載された「下野国那須郡那須国造碑」を眺めながら、どういう人物だったのだろうかと想像した。 この碑は、700年に亡くなった那須直韋提を子供たちが追…

金印と藤貞幹の篆刻知識

江戸時代中、後期の京都の好古家であり、考証学の学者でもあった藤貞幹についても、金印偽作疑惑を調べてみることにした。 京都の佛光寺の塔頭久遠院に生れ一度は得度したが、18歳になって還俗した。仏教を嫌いその後「無佛斎」を名乗った。 自ら彫った「…

金印偽造説と高芙蓉の潔白に就いて

京都東山の真葛が原の住人だった俳諧師西村定雅、富土卵や、双林寺の芭蕉堂などについて調べてきたが、真葛が原には「大雅堂」があり、画家の池大雅(1723-1776)が、画家の玉瀾夫人と暮らしていた。 拾遺都名所図会 蕪村は大雅と交流があり、「平…

長庚(蕪村)のうつし絵と松茸

西村定雅が書いた「長庚(蕪村)がうつし絵」のことが、ぼんやりながら分かってきた。 蕪村は天明3年(1783)に亡くなる直前に、宇治田原を訪ねたことを俳文「宇治行」に記していた。 山里で茸狩りをしたものの、皆は先を争って探しに出て、蕪村は遅れ…

来山の女人形と定雅の竹婦人

茶人で茶の本を多く残した高原慶三(1893-1975)が、俳諧師西村定雅と大伴大江丸のことを取り上げて書いていた。 高原の茶人としての考えは、利休以来、茶道に侘びが重視され、艶が忘れられている、「艶なればこそ侘がある、侘あらばこそ艶がある」…

真葛が原の風の咎

「京師の人物」と題して、瀧澤馬琴は、「羇旅漫録」に記している。 「京にて今の人物は皆川文蔵と上田餘斎のみ」。享和2年(1802)に京を旅した馬琴は、この二名しか、京に同時代の文人はいない、と語りだす。 「餘斎は、浪花の人なり、京に隠居す」と…

都林泉名勝図会の中の定雅

本棚の隅にある、昭和3年に復刊された「都林泉名勝図会」(寛政11年)を手に取った。寛政年間に活躍した京の俳人に関係するものが見つかるかもしれないと思ったのだ。 同書は、京の林泉(林や泉水を配した庭園)を絵入りで紹介する京の観光案内といったら…

大坂俳諧師事件と定雅

京の俳人で洒落本作者の西村定雅が、東山雙林寺で暢気に「烟花書画展覧」を開催した半年前の寛政12年(1800)3月、「大坂俳諧師事件」なるものが持ち上がっていた。雙林寺の芭蕉堂の成田蒼虬も巻き込む騒ぎだった。 私は全く知らなかった。 この一件…

芭蕉蛮刀図と定雅

寛政12年(1800)に京・東山の双林寺境内で開催された「烟花書画展覧」の会について調べていて、妙なことに気づいた。まずは、会を振り返るとー。 この催しには、俳人で洒落本作者の西村定雅が出品したが、主たる出品者は、賀楽狂夫という人物だった。…

定雅が出品した烟花書画展示の会

戯作者の瀧澤馬琴は、生涯1度だけ京・大坂を旅したが、その様子は翌享和2年(1802)「羇旅漫録」に記し、さらに漏れたものを「蓑笠雨談」(享和4年)に収めた。 滞在中に馬琴が会った京の俳人で人気洒落本作者の西村定雅(1744-1827)の名は…

芭蕉堂の花供養

京都東山の真葛が原にある芭蕉堂は、天明7年(1787)刊行の「拾遺都名所図会」に、大雅堂などとともに紹介され、絵の右隅に小さく描かれている。 俳人の高桑闌更が天明3年(1786)、西行、芭蕉ゆかりの地、双林寺の境内に自ら庵を構え、芭蕉堂を建…

定雅、土卵と馬琴の交流

戯作者瀧澤馬琴の長男の妻、路の愛猫ぶりに触れたが、江戸時代後期、江戸の馬琴と京の洒落本作者の交流はあったのだろうか。ふと気になった。 調べてみると、馬琴は81歳の生涯でただ一度、京都に旅していた。享和3年(1803)、36歳の時だった。 京都…

岸駒の蕉翁涅槃図

来年の干支、とらの絵といえば、岸駒(がんく)が知られる。江戸後期の京都で活躍した日本画家で、円山応挙とともに逸話の多い人物だ。 虎の絵を好み、猫を参考にして描いていたが、清の商人から手に入れた虎の頭蓋骨がきっかけで、迫力ある虎を描くようにな…