京洛

殿上人をギャフンをいわせた鬼貫伝

大伴大江丸が残した上島鬼貫の逸話は、俳諧師夏目成美の「伊丹鬼貫伝」に記されている。 伊丹の造酒家の三男鬼貫(1661-1738)は、実家が公家の近衛家の領地だったこともあり、京都の近衛家に出入りすることがあったのだという。 当時近衛家は近衛…

富土卵の言葉遊びと不思議な猫の絵

京の洒落本作家で俳人の富土卵(とみ・とらん)が「狼狽(うろたへ)散人」の筆名で書いた「花實都夜話(かじつみやこやわ)」(寛政5年=1793)で、不思議な挿絵を見つけた。 おそらく本人が描いたのだろう。やかんや庖丁、鍋、釜、擂粉木などの絵は、…

梅宮社祢宜が書き残した「まづあるじゃげな」

橋本経亮をおっちょこちょいと書いたが、私の方がおっちょこちょいだった。 法隆寺の出開帳は、そうたびたび京都では行われていないのだった。伽藍修復の資金集めのために、江戸時代を通して京都は江戸とともに2度行われたにすぎない。 元禄7年(1694…

ダン王の黒猫と法隆寺御開帳

猫で有名になり、今では猫目当ての参拝客で賑わう洛西の梅宮大社であるが、江戸時代この神社には国学者の橋本経亮(1755-1805)という神官がいた。 経亮は、随筆集「橘窓自語」を著し、その中で京都三条大橋の近くにあった「ダン王」こと檀王法林寺…

月の出づべき山もなし 

遊びに来た3歳の孫娘と屋上で皆既月食を見た。双眼鏡でうまく月が見られなかったせいもあってか、飽きてしまい「かくれんぼしよう」といってぱたぱたと屋上を走り回る。月が全部隠れたと伝えると、「お月さんが可哀そう」といってまた走り出した。 皆既食は…

左団次のページェントと歴史学者の証言

「漢委奴国王」の金印について、なぜ本物の金印が2つ存在するのだと、意味深な文章を書いた学者がいる。東洋史学の宮崎市定京大名誉教授(1901-1995)。92年刊行の新書の一節で目にした私は気になって仕方なかったが、詳しいことはその後も書か…

ハンベンゴロウと林子平

久しぶりに知人と渋谷道玄坂の店に繰り出した。若い男女の人波をかいくぐって、坂を上っていった。店の客は年配ばかり。女将さんもかっぽう着姿。渋谷にいることを忘れさせた。 おでんがあったので、はんぺんを頼んだ。「ハンペン」と口に出しながら、「ハン…

70歳の白箸翁と深草の土器翁

事務所近くの理髪店は主人を入れて3人が働いて居る。客としては、誰に当たるかで、若干髪型が違ってくる。3人のうち、ひと月位経っても、髪型が崩れないのが唯一人の女性理髪師だ。 今回店に行くと、その女性がおらず2人で回していた。主人は「病院へ検査…

高山彦九郎「京日記」から見えること

上皇さまが皇太子のころ、来日音楽家の御前演奏会の手伝いで東宮御所に入ったことがある。ガラス張りの広間で、指揮者の渡辺暁雄さんの司会者で、両陛下と数十人のお客さんが鑑賞するなごやかな会であった。 演奏後、歓談の場があって、招待を受けていた旧知…

秋里籬島と藤貞幹の密かな関係

江戸中後期に多くの名所図会を編輯した秋里籬島という人物も謎が多い。 藤川玲満氏の「秋里籬島と近世中後期の上方出版界」(14年、勉誠出版)を取り寄せた。同書によると、近年秋里の出自に関する史料が発見され、祖先は鳥取市にあった因州秋里城主に仕え…

ほろ苦い立原翠軒の上洛

ささやかな地異は そのかたみに 灰を降らした この村に ひとしきり 早逝した昭和の詩人立原道造の「はじめてのものに 」は、いまも出だしだけは覚えている。浅間山の小噴火で、ふもとの村に灰が降ったのを、こんな風に表現するのだった。 同じ学び舎で建築家…

不思議な鳥瓶子と貞幹

「都林泉名所図会」(寛政11年)で真葛が原の俳諧師西村定雅、富土卵の作品を取り上げた秋里籬島のことを前に書いたが、彼は好古家で考証学者の藤貞幹とも接点があった。 秋里は、安永9年「都名所図会」6巻を刊行し大ヒットを飛ばした人物。都の東西南北、…

那須國造碑と藤貞幹

江戸後期の京都の考証学者、藤貞幹のことを考えてみる。 彼の「好古小録」(寛政7年、1795)に掲載された「下野国那須郡那須国造碑」を眺めながら、どういう人物だったのだろうかと想像した。 この碑は、700年に亡くなった那須直韋提を子供たちが追…

金印と藤貞幹の篆刻知識

江戸時代中、後期の京都の好古家であり、考証学の学者でもあった藤貞幹についても、金印偽作疑惑を調べてみることにした。 京都の佛光寺の塔頭久遠院に生れ一度は得度したが、18歳になって還俗した。仏教を嫌いその後「無佛斎」を名乗った。 自ら彫った「…

金印偽造説と高芙蓉の潔白に就いて

京都東山の真葛が原の住人だった俳諧師西村定雅、富土卵や、双林寺の芭蕉堂などについて調べてきたが、真葛が原には「大雅堂」があり、画家の池大雅(1723-1776)が、画家の玉瀾夫人と暮らしていた。 拾遺都名所図会 蕪村は大雅と交流があり、「平…

来山の女人形と定雅の竹婦人

茶人で茶の本を多く残した高原慶三(1893-1975)が、俳諧師西村定雅と大伴大江丸のことを取り上げて書いていた。 高原の茶人としての考えは、利休以来、茶道に侘びが重視され、艶が忘れられている、「艶なればこそ侘がある、侘あらばこそ艶がある」…