70歳の白箸翁と深草の土器翁

 事務所近くの理髪店は主人を入れて3人が働いて居る。客としては、誰に当たるかで、若干髪型が違ってくる。3人のうち、ひと月位経っても、髪型が崩れないのが唯一人の女性理髪師だ。

 今回店に行くと、その女性がおらず2人で回していた。主人は「病院へ検査に行きました。なにせ73歳ですから」。女性はよくゴルフの話をしながらバリバリ働いて居る。60代だろうと思って居たので、「エッ」と反応した。

 

 平安時代前期の貞観年間、京で白箸を売る70歳の翁の話を、紀長谷雄(845-912)が書き留めている(本朝文粋)。

前賢故実」に描かれた白箸翁

 

 白箸というから、何も塗っていない削った木の箸なのだろう。自らは70歳といっているが、長年箸売りをしているので、市中で誰もが知って居た。不思議なのは、楼の下で営業する80歳の占い師(これも高齢だが)が、「私が児童の頃からあの年取った白箸翁を、あの姿のまま路で見かけたものだ」と証言したことだ。

 70歳どころかとうに100歳は超えているのではないかとささやかれた。やがて翁は亡くなり鴨川の東岸に埋葬された。しかしその20年後、市にやって来た僧が、山の石室であの翁を見た、香を焚き、経を唱えていたと目撃談を披露したのだった。

 

 この白箸翁の話は興味を持たれ、平安末の「本朝神仙伝」から江戸初期の「扶桑隠逸伝」と語り継がれた。

 

 江戸時代中後期の俳人与謝蕪村は、京の南の深草の土器(かわらけ)売りに、この面影を重ねて文を作った。

 

深草の辺に年久しく隠れ住む怪しき翁ありけり。手づから土器を作りて、いつも歳の末には自ら荷ない出て、都の町々を鬻ぎ歩くのみ。常は何営むともなく草の戸細深くかき籠りて、その齢幾許といふことを知らず。昔時より老にして今も老なり。かの白箸の翁の類ひにやあらむ、いとゆかしきことなり

 

 蕪村は、平安時代の白箸翁に対し、江戸時代の素焼きの器を売る翁を配して不思議な物売りを再現しようとしたようだ。年の暮れ、正月用の燈明皿などを売りに行く翁に。

 

 当時、京では白幽子という石川丈山の使用人(あるいは師)なる者が200歳を越えて生きているという話が広がっていて、仙人のような長寿の翁に関心が持たれていたようだ。

 

 京の深草は、嵯峨、幡枝とともに土器の生産地だった。深草の陶土を用いた土器は古い歴史をもち、近世になると伏見城の瓦や伏見稲荷の土鈴、それが発展した伏見人形などが作られだした。

 

 蕪村の時代、柳沢里恭(1704-1758)が京などで見聞きした話を集めた「雲萍雑誌」の中に、伏見の土器、人形を売る翁の話が掲載されている。

 

伏見より年七十歳ばかりなる老翁。土偶人瓦器(つちにんぎょうかわらけ)の類を荷ひて。洛中を売りありくなり」。

 

 シチュエーションは、蕪村と同じだ。

 行商の翁が京に到着して商い先で食事していると、店の奉公人が、年老いた商人に興味をもって集まって来た。

「荷物は総額でいくらくらいか。」「銀15、6匁ほど」。

 奉公人は大荷物を抱えて商売をする年寄のことが気にかかる。京は人の往来が多い所だから過って品物を割ったらどうするのか、と質問する。

「こちらの過失であれば、借りて商いを続ける。一荷くらいなら信用で借りられる」と翁。

 奉公人たちはさらに聞く。そのうえでまた壊したらどうするのか。

 翁は、もう無心も出来ないだろうから「その折こそ、其許達のごとく。奉公なりとも致すより外に、せんかたなし」と言い放ったのだった。

 

 京の若い奉公人を相手に、70歳のしゃきっとした姿が浮かび上がって来る。どうやらこの時代には蕪村の描くような不思議な土器売りは稀で、活発な商品経済を担うこんな元気な老人が多かったようだ。

 73歳の女性理髪師を思い浮かべてそう思った。