考古学

秋里籬島と藤貞幹の密かな関係

江戸中後期に多くの名所図会を編輯した秋里籬島という人物も謎が多い。 藤川玲満氏の「秋里籬島と近世中後期の上方出版界」(14年、勉誠出版)を取り寄せた。同書によると、近年秋里の出自に関する史料が発見され、祖先は鳥取市にあった因州秋里城主に仕え…

那須國造碑と藤貞幹

江戸後期の京都の考証学者、藤貞幹のことを考えてみる。 彼の「好古小録」(寛政7年、1795)に掲載された「下野国那須郡那須国造碑」を眺めながら、どういう人物だったのだろうかと想像した。 この碑は、700年に亡くなった那須直韋提を子供たちが追…

金印と藤貞幹の篆刻知識

江戸時代中、後期の京都の好古家であり、考証学の学者でもあった藤貞幹についても、金印偽作疑惑を調べてみることにした。 京都の佛光寺の塔頭久遠院に生れ一度は得度したが、18歳になって還俗した。仏教を嫌いその後「無佛斎」を名乗った。 自ら彫った「…

金印偽造説と高芙蓉の潔白に就いて

京都東山の真葛が原の住人だった俳諧師西村定雅、富土卵や、双林寺の芭蕉堂などについて調べてきたが、真葛が原には「大雅堂」があり、画家の池大雅(1723-1776)が、画家の玉瀾夫人と暮らしていた。 拾遺都名所図会 蕪村は大雅と交流があり、「平…

山野草の会で見つけた武蔵鐙

春の山野草の会に、細と連れ立って行ってきた。毎回、面白い名称の草と出会う。 今回は、ムサシアブミの展示が数鉢あった。鐙(あぶみ)の形に似ているので、命名されたらしい。 鐙についておさらいしてみた。 鐙は、日本では、古墳時代に騎馬文化の流入とと…

100年前の大仏写真

猫と一緒に、1908年発行の本を引っ張り出して、確かめてみる。 英国の女流作家アリシア・リトルが著した清の時代の中国紀行「In the Land of the Blue Gown」(Mrs. Archibald Little)。この本に掲載された巨大な石仏の写真を思い出して、開いてみたの…

ハッダの仏頭のこと

アフガニスタンは行ったことがないし、遠い存在だと思って居たら、我が家のテレビの前のチェストが、アフガニスタン製の家具のはずだ、と細が言い出した。 テーブル替わりに使っている。数十年も前に、近所に家具屋が出来たので覗きに行って、珍しいこのチェ…

折れた板碑のたたり

東京都の国宝建築物、地蔵堂のある東村山市の正福寺境内には、秩父青石(緑泥片岩)の大きな板碑が小堂に納められている。 この板碑も、昭和2年に地蔵堂を発見した郷土史家稲村坦元、建築史家田辺泰の両氏が関わっていた。 稲村氏は当時、地元で農業を営み…

もっと知りたい正福寺地蔵堂

前回触れた東京都下、正福寺の国宝・地蔵堂について、もう少し調べてみた。 地蔵堂は1927年の「再発見」後、鎌倉の円覚寺舎利殿(国宝)とともに、「唐様(禅宗様)」の2つの代表建築とされた。 しかし、円覚寺舎利殿については、その後重大な発見があ…

曲がった牛蒡と、間違った道順

午前中、我々の事務所への電話が、かからなくなった。外に出ているスタッフから、所内のスタッフのケータイに電話があり、事務所の電話が通じないと言ってきたのだ。 確かめるため、ケータイから事務所の番号へ電話すると、「ただいま回線が混みあって、かか…

清張「断碑」へのいらだち

なんで、森本六爾について、むきになって書いているのか。自分でも考えてみた。 おそらく、森本のモデル小説「断碑」を書いた松本清張によって作られたイメージにいら立ちを覚えるからだろう。 「当時の考古学者は誰も木村卓治(森本)の言うことなど相手に…

紫の風呂敷包を持ち運んだ六爾

歴史学者であった三宅米吉は、大正8年から5年間、東京高等師範学校の学校挙げての騒ぎの渦中にいた。 同年一橋大の前身、東京高等商業学校が、いち早く中橋文相の許可で大学昇格(東京商科大)が決まったためだった。蔵前にあった高等工業高校(現東工大)…

森本六爾の颯爽デビュー

昭和2年の「研究評論 歴史教育」に掲載された東京高等師範教授中村久四郎と森本六爾の共著の広告を見てみると、 中村の肩書は「東京高師教授 史料編纂官」 森本の肩書は「東京高師歴史教室」となっている。ともに「先生」と書かれている。 三宅米吉東京高等…

四海書房と「考古学研究」

神保町のY書房で「研究評論 歴史教育」という学術誌を見つけた。昭和2年7月号と9月号で、この中に、森本六爾編輯の「考古学研究」創刊号の広告が掲載されていて、びっくりした。 坪井良平宅を編輯所として立ち上げた「考古学研究」は、「四海書房」という東…

六爾に託した米吉のこと

歴史学者としての三宅米吉について、なお書いておきたいことがある。 今から振り返ると、晩年の大きな役割は、考古学徒の森本六爾を支援して、育てようとした事だったように思う。奈良県磯城郡(桜井市)で生まれ、地元で熱心に研究を進めていた若き森本は、…

古墳時代の砥石

砥石を軽視するなかれ。 砥石は、千葉県市原市の稲荷台1号墳(北)から出土している。 古墳中期の円墳で、「王賜」銘鉄剣が発掘された重要な古墳だ。 入江文敏氏「佩砥考」 砥石は長方形で、上部に孔があることから、帯から吊り下げられる「佩砥」と解釈され…

赤瑪瑙の火打石

玉造と倭建命との関係を伺わせる記載は特にないが、「火打石」をキーワードにすると、浮かび上がってくるものがある。 「常陸国風土記」の久慈郡の条を見てみる。 久慈と名付けたのは倭建命だと書かれている。 ≪古老がいうことには『郡役所から南の近いとこ…

玉造センターと倭建命

佐賀市の知人から、定年後の仕事が決まったと、挨拶の電話があった。結構なことなので喜ぶと、小城市の会社に通うのだという。「小城羊羹の小城ですか」と答えると、「しっとっとですか」と驚く。砂糖が固くこびりついた小城羊羹は、なんども食べた。 ほんと…

騎馬軍団前史の倭建命

若いころ、カメラマン2人と東南アジアへ仕事で出かけた。 やがて一人は水中カメラマンの大御所になったが、もう一人は軍事評論家になった。軍事評論家になった彼は当時、カメラマンとして「軍事民論」という民間の軍事研究会を立ち上げたO氏の手伝いをして…

日葉酢媛から息長帯姫へ

いきなり、石枕のことを考え出しても所詮はシロウト。これから網羅してチェックするほど、残りの人生は長くない。 今までの記憶と手に入る史料で考えるしかない。 神功皇后が、先に亡くなった仲哀天皇のために、棺の石材を手配する話が、「播磨国風土記」に…

石枕に踏み込んでみると

石枕文化のルーツを探るには、石枕が最も早く出現した地域を調べることだろう。それが特定できれば、石枕の文化が、そこに海外から初めて伝わったか、あるいはそこで出現したかということになる。 編年を作る作業は、最古の石枕を発見するために重要な手がか…

ネズミが齧った石枕

ネズミのおかげで、大きな解明につながる、こんなこともあるのか、Y書房で手に入れた「千葉史学」の87年5月号の白石太一郎氏の論文で知って興味がわいた。(「大鷲神社古墳発見の石枕とその提起する問題」)。 白石氏が取り上げているのは、「常総型石枕…

大正期「民族と歴史」の三越広告

ささやかながら手持ちの歴史、考古学系の学術雑誌の広告を調べてみた。 裏表紙の広告は、書籍の広告が大半だったが、4冊だけ違うものがあった。 「歴史地理」大正6年8月 大日本麦酒(株) 「民族と歴史」大正9年12月 三越呉服店 大正11年4月 三越呉…

考古界とライオン歯磨

旗を持って立っているライオンのイラスト。明治34年(1901)の「考古界」の裏表紙に、ライオン歯磨の広告が掲載されていた。 ライオンといわれればライオンだが、ライオンらしからぬライオンの姿だ。日本の動物園でライオンが飼育されたのは、上野の恩賜動物…

明治34年の「考古界」

前に触れた明治時代の考古学、人類学の学者若林勝邦氏、坪井正五郎氏らの当時の活動ぶりを知りたくて、明治34年に発行された学術誌「考古界」を古本店から取り寄せた。 同誌は明治28年に設立された「考古学会」の機関誌。設立に奔走した若林氏、三宅米吉…

皇帝の鐘と銅鐸

ロシアの鐘(コーラカル)について思い出したのが、柴田常恵氏の先生だった考古学者の坪井正五郎氏(1863-1913)のことだ。英留学し、東京帝大の人類学教室で、考古学や人類学を日本で立ち上げた人物だ。 私は、「ウリユス」という江戸時代の薬問屋…

政職氏と考古学者柴田常恵氏の出会い

考古学者の柴田常恵(じょうえ)氏(1877-1954)の残した豊富な写真資料が、国学院大学デジタル・ミュージアムで簡単に見ることができる。北海道から鹿児島、朝鮮、南洋パラオ、中国―フィールドワーク、遺跡発掘調査など貴重な写真資料ばかり。 そ…

榊原政職氏と関野貞教授

夭折した考古学徒榊原政職氏について書いたが、不思議に思うのは、小田原中学を卒業後どうして京都帝大の教務嘱託に採用されることができたのかということだ。 政職氏の遺著「人類自然史」で表紙デザインに協力した建築史の大家、東京帝大工科大学教授の関野…

榊原政職氏の遺著のこと

夭逝した考古学者榊原政職氏の遺著が目の前にある。 300頁を超える立派な「人類自然史」(内外出版、大正12年)。日本の石器時代の文化の研究から、世界全般の人類の研究に及ぶ著作であった。 前に触れた熊本県の轟貝塚の発掘の1か月後、血尿を訴え、…

考古学者「榊原政職閣下」のこと

「黒猫」を書いた薄田泣菫に興味を持って、随筆を読み始めている。「茶話(ちゃばなし)」には、明治、大正期の名だたる政治家、作家、画家、学者の素顔を描き、時に笑い飛ばしている。歴史学者の喜田貞吉もお婆さんのような笑顔をからかわれ、「広辞苑」の…