考古学者「榊原政職閣下」のこと

「黒猫」を書いた薄田泣菫に興味を持って、随筆を読み始めている。「茶話(ちゃばなし)」には、明治、大正期の名だたる政治家、作家、画家、学者の素顔を描き、時に笑い飛ばしている。歴史学者喜田貞吉もお婆さんのような笑顔をからかわれ、「広辞苑」の編者で知られる言語学者新村出(京都帝大)も、たびたび弄られている。

 1919年、新村の年賀状についてのエピソードを要約すると。

f:id:motobei:20200107221309j:plain 新村出

「榊原政職(まさより)」といふ人から新村に年賀状が届いた。誰だか、思い出せない。「榊原康政――榊原琴洲――榊原健吉」言語学者は榊原と姓のつく者を記憶のなかに呼び出した。一人は徳川の四天王、一人は江戸の国学者、一人は幕末の剣術使。「榊原政職―一体誰の事だらうな。」「その瞬間、新村氏は自分が子供の時分よく、自宅へ遊びに来てゐた榊原といふ軍人がある事を思ひ出した」陸軍少将まで上がって、今は予備役と聞いていたので、早速返しの年賀状を榊原政職閣下の宛名で出した。数日後、新村氏の話を側で聞いていた文科大学の教授は、「榊原政職だつて。君はその人を閣下扱ひにしたのかい。」「したともさ。陸軍少将で、おまけに先輩ぢやないか。」「はははは……。榊原政職つていふ男は、考古学教室の助手ぢやないか。」

 

 さて、榊原政職という考古学者は知らなかった。早速調べると、京都帝大考古学教室の浜田耕作教授とともに、1920年熊本県宇土市の轟貝塚の発掘調査をしていた(京大学術情報リポジトリ「肥後國宇土郡轟村宮荘貝塚發掘報告」)。連名で調査報告書を出し、助手だったのだろうが、肩書はない。1900年生まれなので、新村が「閣下」で投函したときは、まだ19歳だった。

 轟貝塚の調査報告では、貝塚からの出土土器とともに、貝類11種類を、榊原が報告していた。

 あかにし、

 てんぐにし、

 つめたがい、

 ばい、

 やまにし(淡水産)、

 はいがい、

 さるぼう、

 かがみがい、

 はまぐり、

 いたぼがき、

 かき(なががき、えぞがき)。

 とくに注目されるのは、今では有明海に生息していない「かき」が貝塚の上層で大量に出土していたことだった。おそらく縄文時代の終わりごろ、遠浅の海にはかきが豊富で、縄文人が好んで採取していたことが分かる。

 榊原は、貝の種類の特定を「前平瀬介館主任黒田徳米君を煩わし」たと記している。

 平瀬介館とは、前にウミウサギについて書いた時に触れた京都・岡崎の平瀬与一郎の貝類博物館。貝類研究の基礎を作った平瀬は、1913年(大正2年)京都の平瀬商店の私財をなげうって博物館を建設したが、運営に行き詰まり、ほどなく閉館となった。

 丁稚奉公の後、貝類に魅せられて独学で研究に打ち込んだ黒田徳米は、平瀬の息子信太郎とともに、与一郎の弟子として能力を発揮し、博物館で「主任」を任せられたようだ。京都帝大の考古学教室では、博物館の閉館後も、遺跡から出土した貝の特定に、黒田を頼っていたことが分かる。

 1920年の榊原の依頼の成果が認められたこともあってか、黒田は翌21年に京都帝国大学の助手に雇われた。これがきっかけとなって、28年には日本貝類学会創設に尽力(やがて会長就任)。1937年には、アメフラシの学名に「APLYSIA KURODAI」と、黒田の名前が織り込まれる栄誉を受けた。太平洋戦争後の47年には京大から博士号を受けてなお研究を深め、87年に逝去した。享年100の長寿だった。

  榊原氏については、岡田茂弘氏が「学習院の考古学」という文章の中で触れていた。政職を「まさより」でなく「まさもと」とルビをつけていた。

 旧越後高田藩主の子孫で、1906年(明治39)に学習院初等科入学。考古学に興味を持って、京都帝大考古学教室に属した。轟貝塚だけでなく、京都帝大の津雲貝塚、蜆塚貝塚と歴史に残る発掘調査に参加、自身でも縄文前期の標式遺跡となった神奈川県の諸磯遺跡の発掘して成果をあげた。

 なんと、1922年(大正11)に22歳の若さで逝去していた。100歳の黒田と対照的な夭折だった。

 薄田泣菫の茶話を通して、「榊原政職閣下」という存在を知り、さらにもっと知りたくなる。