泣菫が取り上げたパデレフスキ

 神保町の猫のいる古レコード店で見つけては買い込んでいるピアニスト・パデレフスキのLPレコードが溜まってきた。なにせ、1860年に生まれ、1941年に亡くなっている世代の演奏家なので、時々音楽会に一緒に行く知人に話をふっても、まったく興味を示さない。

 

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 薄田泣菫の「茶話」を読んでいて、彼の同時代人パデレフスキが2度も登場したので、ちょっと嬉しくなった。初めは、1917年(大正6)2月10日の「顔と頭」の文章。要約すると。

 「パデレウスキイといへば波瀾(ポーランド)の聞えた音楽家だが、最近米国に渡った時、ある日勃士敦(ボストン)の停車場で汽車を待ち合わせてゐた事があった」で始まる、渡米時、ボストン駅でのエピソードだ。

 一二、三歳の少年の靴磨きが物蔭から飛び出して、「旦那磨かせていただきませうか。」と声をかけた。小さな顔が靴墨で真黒に汚れていたので、音楽家はズボンから銀貨を出し、「磨かなくともいい、お前の顔を洗っておいでよ。さうするとこの銀貨をあげるから。」と言った。

 洗面所で顔を洗って戻ってきた少年に、音楽家が掌に銀貨を乗せると、子供はいったんもらったが、直ぐまた音楽家の掌にそれを返した。

「旦那、銀貨はこの儘お前さんに上げるから。これで散髪をおしよ。」

「パデレウスキイ」は驚いて額を撫でると、確かに帽子の下から長い髪の毛がはみ出していた。ベートーベンをまねた自慢の髪の毛だったのに。

 

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 レコードジャケットのパデレフスキは、なるほどベートーベン風の髪型をしている。靴も汚れたまま、髪の毛の手入れもしていない音楽家として、靴磨き少年からは、同情を受けてしまったようだ。

 ついで、登場するのが1919年(大正8)1月6日の「音楽家の大統領」。

 

 ペデレウスキが、独立ポーランド政府の首相に選ばれたときのことだ。

共和国になりかからうとしてゐる波瀾では、その最初に大統領に洋琴家のパデレウスキイ氏を選んださうだ。」と始めている。「今では世界切ってのピアノ弾きで、旅行をする折にも手が硬ばると可けないからといって、ピアノを汽車のなかに担ぎ込んで、閑さへあれば鍵盤を打ってゐる人である。」と続けている。

 欧米でスター・ピアニストだったペデレフスキは、第一次世界大戦(1914-1918)中は、ポーランド独立の活動に邁進して、欧米で支持を呼び掛けた。終戦後の1918年1月に、独立ポーランドの首相(外相兼務)に選ばれ、パリ講和会議に出席し、同11月で任期を終え、国際連盟の大使に就任した。

 

 泣菫は、首相と大統領とごちゃまぜにしているが、ペデレフスキの政治活動を好意をもって書いている。

弁護士出の政治家でなければ、政事の実際が判らないもののやうに思ふのは、旧い時代の習慣に囚はれた人達の事である」。

 

 さらにモーツアルトの小噺の例を取り上げている。物乞いに身の上話を聞かされ同情したモーツアルトが、一銭の持ち合わせがないため、珈琲店で急いで楽譜を書きあげ、物乞いに持たせた話だ。出版社で「20円ばかしの原稿料」を受け取った物乞いは、「物貰ひに次いでは、音楽家ほど割のいい仕事はないと思ったらしかった。」

パデレウスキイが大統領になったら、生活に困ってゐる人達は訪ねて往って身の上話をしてみるのもよかろう」楽譜をくれないまでも、芸術家のことだから「気の利いた言葉でも聴かせてくれるに相違ない。気の利いた言葉は、金にならないでも、薬にはする事が出来る。」と締めくくっている。

 

 レコードで聴く限り、彼の音楽は、楽譜の再現でなく、一度自分の体を通して、自分が納得して発したように思える。とくに、同じポーランドが生んだショパンマズルカの数々が好ましい。仕事疲れの心身をほぐしてくれるのでよく聴いている。