パデレフスキの決意

 森田恒友山本鼎がパリで、山田潤二がベルリンで、ドイツの宣戦布告を聞いた1914年8月1日、フランス国境に近いスイスのモルジュに、これまで幾度か触れてきた53歳のポーランドのピアニスト・パデレフスキが滞在していた。(写真はモルジェの邸宅と書斎=the Paderewski Memoirs から)

 

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 欧米音楽界でコンサートツアーを成功させ、世界的名声を得たパデレフスキは、前年米国のサンフランシスコで、ブドウ園を経営し、ワイン製造をするなど、実業家としても活動を開始したが、スイスのレマン湖ほとりのモルジュに家を買い、公演を終えるとここで静養していた。ドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国に支配されていた祖国ポーランド独立運動の支援もしていた。

 

「パデレフスキ自伝」は、第一次世界大戦の勃発を知ったこの日の翌日8月2日で、終結している。

 

 自伝の中で、パデレフスキは、戦争を予感していたときっぱりと語っている。

私は6月には、暗雲が漂いだしたのを知っていた。私の所に多くの訪問者があって、欧州地図の巨大な変動を指摘していたから、私は来るべき出来事を予想していた。宣戦布告に驚かなかった

  サラエボ事件のあった6月以降、彼のもとに情報が続々入っていたのだった。

 

 翌日一人、パデレフスキは、最寄り駅まで散歩した。スイス人の知人兄弟は、制服姿になって駅舎を護り、別の友人もまた、制服姿で郵便局を警備していた。(中立を守ったスイスでも、戦争開始とともに、まず運輸、通信の確保をしたのだった)

 

 パデレフスキは、世界は変わってしまった、と実感する。自分もまた新時代に飛び込んで、音楽活動とは別の仕事を果たさなければならないー。

私の芸術生活は終焉した」と書いている。

 

 自伝は、「戦争がやって来た。全ての者たちにやって来た。沈黙の棺の覆いが、全ての美しく平和な田舎を覆ってしまった。黒い覆いは、あと何年も幕をあげることはない」と述べて閉じている。実際戦争は4年余続いた。

 

 この後、パリに移動し「ポーランド民族委員会」のメンバーに参加。ロンドンでは、「ポーランド回復基金」を立ち上げ、ニューヨークではポーランド独立のための資金援助の交渉もした(17年に、ショパンと自作のNY録音が残るが、運動資金稼ぎか、運動広報のためだったのだろう)。

 中心的役割を果たすようになったパデレフスキは、大戦末期の18年ポーランドポズナニで、ドイツへの蜂起を呼び掛け、翌19年には「ポーランド第二共和国」の首相兼外相に就任。大戦処理のパリ講和会議ポーランド代表で出席。戦中、戦後と政治の世界で活動したのだった。

 

 すべてがうまくいったわけではないが、役割を果たしたと思ったのだろう、1922年に音楽の世界に戻って、演奏活動を再開した。9年間、政治の世界に飛び込み、それを終えると、また音楽演奏の日常に戻ったのだった。19年後に亡くなったが、こういう芸術家がいたというのは、正直驚きである。

「自伝」の続き、パデレフスキの後半生を描いた著作、史料はないものか。