パデレフスキ髪伝説の出どころ

 ボストン駅での、ピアニスト・パデレフスキと靴磨き少年のエピソードを、どうして、薄田泣菫が手に入れて書いたのか。きっとネタがあったのだろう。ちょっと探ってみた。

 1917年に薄田は書いているが、パデレフスキの初渡米は1891年。26年前のこと。米国の記事を読んだと考えるのがまっとうだろう。

 謎を解くべく、「闘うピアニスト パデレフスキ自伝」(2016年、湯浅玲子訳、ハンナ)で調べてみた。上下巻のこの自伝は、大変面白い内容だ。

 

f:id:motobei:20200114165710j:plain

 パリ、ロンドンの演奏会デビューで華々しい成功を遂げたパデレフスキは、NYへ向かう。1891年11月にロンドンで小さな蒸気船に乗せられ、恐怖を覚える揺れの日々。なんとか到着したNYは、陰鬱な雨の夜だった。それにもまして、ショックだったのが、初めて会った米公演のマネジャーの冷たい態度だった。

 著名なピアノ会社、スタインウエイが後援したツアーは、3万ドルという破格のギャラが用意されたが、同社派遣のマネジャーは、いじめに近い仕打ちをする。NY、ボストン、シカゴで80公演のスケジュールをブッキングしていたのだ。

 マネジャーは、パデレフスキに遠慮なく、米国にはすごいピアニストがたくさんいて、聴衆の耳も欧州とは違う、ロンドンやパリの成功を期待しないでほしい、ピアノの宣伝になればいいので、損失がでなければいい、客の入りも期待しないでほしいという残酷な宣告をするのだった。

 用意されたホテルには、鼠と虫の群れが出る。翌日、同行した秘書がスタインウエイ社に掛け合って、ウィンザーホテル(名物ホテル、8年後の1899年に大火事)に移動した。

 到着後待ちうけていた公演は、1週間で6曲の協奏曲(もちろん別のプログラム)と数曲の独奏。めちゃくちゃなスケジュールだ。第一回公演は、カーネギー・ホールで、ダムロッシュ指揮ニューヨーク交響楽団と協奏曲を2曲(サンサーンス、パデレフスキ)、ショパンを5曲独奏して、上々の反応。

 同夜、2回目の演奏会の準備に入るが、ホテルでの練習はNG。なんとかスタインウエイ社のピアノ倉庫で練習する段取りをつけ、がらんとした倉庫で、2本の蝋燭を立てて夜中から朝まで5時間練習したのだった。秘書と夜警の2人はいびきをかいていたという。

 そのまま、午前10時からのオーケストラとのリハーサルに臨み、その後も一人練習。2回目のカーネギーでの演奏会は、客席が感動しているのが分かるほどだった、と振り返っている。休む暇なく、3回目の演奏会に備えて、また倉庫に向かい、ルービンシュタインの協奏曲、ショパンの協奏曲1番の練習を17時間行った。結果は、恐るべき反響。切符も売れ、予想以上の3000ドルの売り上げがあったという。

 

 列車の中でもピアノ練習していたと薄田が書いた練習熱心なパデレフスキのエピソードは、マネジャーが無理なスケジュールを入れたため、必死になって練習していたことから生まれた逸話だったかもしれない。

 

 パデレフスキは、「後に彼から聞いたところによると(その後、私たちは良い友人になったので)、彼には特別親しいピアニストの友人がいて、彼以上の成功を他のピアニストにさせたくなかった、特に私に成功させたくなかった、と言うのだ。おかしな理由だ」と言っている。そのピアニストは誰だろう。

 

 こんな洗礼を米国で受けながら、ピアニストとして成功していく。では、ボストン駅の靴磨きのエピソードはどうしてか生まれたか。これもヒントらしきものが記されていた。

 パデレフスキは、このマネジャーに、有力紙の批評家たちを紹介されたが、ボストン・ヘラルド紙のフィリップ・ヘール氏とは頻繁に合ったと書いていた。そう問題のボストンだ。

 ヘール氏は、教養人で音楽以外のことも造詣が深かったが、気になる点があったという。

私の何かがいつも彼にショックを与えていたようなのだった。(略)それは私の髪の毛だったー彼は私の髪に慣れることも出来ず、そのことについて面白おかしく書かずにはいられなかった

 どうやら、犯人はへール氏で、面白おかしく髪の毛の記事を書き、やがて薄田泣菫の知る事になったようだ。なぜ、へール氏は髪の毛に関心を持ったのか、「私の髪を羨ましがっているのか、それとも単に気にいらなかったのか、いつも疑問だった」とパデレフスキ。羨ましがる、という書きぶりからすると、どうやらへール氏の頭は禿頭だった可能性が高い。