猫とアシュケナージを聴いてみる

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 猫と一緒に、アシュケナージの演奏を聴きながら、つらつら、思ってみる。

 

 アシュケナージは、20歳ほど年長のソ連の2人のピアニスト、ギレリスやリヒテルをどう見ていたのだろう。確認してみた。

 

アシュケナージ 自由への旅」によると、音楽院に入学した時、ギレリス、リヒテルの先生だったノイハウスが、高齢ながらまだ教えていた。学生たちはノイハウスに教わろうと殺到し、「彼が一言口を開けば、学生たちはうっとりしてしま」った、と書いていた。

 

 だが、アシュケナージはノイハウスでなく、オボーリンと弟子のゼムリアンスキーの教室に入った。オボーリンは公演活動に精出し、教えるのは専らゼムリアンスキー。「ノイハウスのクラスではついていけたかどうか疑わしい」と控えめにアシュケナージは語るが、芸術性よりも、当時はピアノの演奏技術をもっと磨きたい、という考えが強かったようだ。

 

 しかし、少年時代からアシュケナージが、あこがれていたピアニストはー、リヒテルだった。

「尊敬したピアニストはもちろん、リヒテルだね。ほんの子どもの頃からの信奉者なんだ」「どんなことがあっても彼の演奏会にだけは行ったね」。

 リヒテルの演奏は、自分がしていることは絶対に正しいのだという確信があった、そのため、あれほど聴衆に訴える力があった、と分析している。

 さらに「ドビュッシーの解釈者としては最高だと思っている」と語っている。

 

 1961年から62年の夏、音楽院の生徒だったアシュケナージは、レッスンを受けにリヒテルの自宅を訪問したという。奥さんは玄関で、夫は誰とも会いたがらない、と断ったが、入って行くと、寝台で「白鯨」を読んでいたリヒテルは、起き上ってアシュケナージのピアノ演奏を聴いて助言したという。

 リヒテルは、なぜかショスタコーヴィッチの「前奏曲とフーガ」の演奏中に、ある個所で引っかかり中断。意気消沈してベッドで寝そべっていたのだった。アシュケナージが演奏後に、きっともう大丈夫ですよ、と声を掛けると、リヒテルは今度はすんなりと演奏できたのだという。

 

 親しみを込めて語っているリヒテルとは違って、ギレリスには距離を置いている。

 10代の頃のエピソード。ピアニストで作曲家のカバレフスキーが、14歳のアシュケナージの演奏(ベートーベンのピアノ協奏曲1番)を聴いて感心し、翌年に新曲「若人の協奏曲」のソリストに抜擢した話だ。モスクワ響などと4か所で公演して評判を呼び、カバレフスキー自ら指揮した時もあった。

 ところが、この曲の録音にあたってカバレフスキーは、組んでいたアシュケナージでなく、ギレリスを択んでしまった。

「ギレリスはギレリスで、そんな曲に時間をつぶすのには二の足を踏んでたんだ。でも、あのふたりは友達だったから、ギレリスも断り切れなかったんだよ」

 ソ連流の「名声がいっさいに勝るという考え」。その典型的なカバレフスキー通俗的な仕打ちにアシュケナージは憤り、付き合いで承諾したギレリスについても面白く思っていないのが見て取れる。ギレリスにはシンパシーを示していない。

 

 さて、リヒテルアシュケナージのことをどう回想しているか。「スヴェトスラフ・リヒテル ノートと会話」の索引をチェックすると、2個所のみ。ひとつは、ハンガリーのピアニスト、コチシュのバルトークの演奏に触れ、ポリーニアシュケナージより魅力があるとのメモ書き。もう一つは、テレビで聞いたアシュケナージブラームス「4つの小品」演奏の感想。「トータルで失望。表現=ゼロ。なにも起らず。これが、ヴォローディア・アシュケナージ! 彼は違う惑星から来たのか」と厳しく書きつけていた。

 

 一歩も譲らない己の信念ゆえの、他者への苛烈な批評。私はたじろぎつつも、芸術家間の本音の批評は、こんな風に激しいものなのだな、と思った。