ギレリスとリヒテルに関するメモ

 ギレリスについて、自分なりに整理してみた。

 

 エミール・ギレリス(1916-1985)は、16歳の時、1933年全ソビエトピアノコンクールで優勝した。これがその後の運命を決めてしまった。

 ソ連の独裁指導者たちは、「芸術活動」をさかんに政治利用した。国の内外で、社会主義ソ連の優越性を示すためだ。レーニンは、映画に関心をもった。エーゼンシュタインの「戦艦ポチョムキン」など、画期的なモンタージュとして世界に向けて宣伝発信した。

 スターリンは音楽。クラシック音楽ソ連の優越性をPRするために、神童ギレリスを択んだ。気取ったブルジョワの旧弊な演奏でなく、卓越した技術によるスポーツのような機能美。社会主義ソ連の音楽演奏だと。

ヒトラーは、ゲッペルスを持っていた。私は、ギレリスを持っている」と発言してスターリンは自慢した。ギレリスは、ナチスプロパガンダの天才と一緒くたにされ、有能な宣伝道具として扱われた。

 

f:id:motobei:20201211150734j:plain「スヴェトスラフ・リヒテル」より。写真は左がリヒテル、中央がギレリス

 

 このあと、ギレリスはモスクワ音楽院リヒテルと数年間、共に学んだ。2人は初めは仲が良かったが、決裂する。

 当時のソ連の代表的な作曲家がプロコフィエフだった。プロコフィエフをめぐっても対抗心を燃やす。すでに、ギレリスは、ソナタ8番をこの作曲家から献呈され、初演していた。リヒテルは、「プロコフィエフの3番のソナタが大好きなのだが、ギレリスの演奏を聴いてしまっては、私が付け加えるところは全くない」と演奏を封印した。天才ピアニスト同士の切磋琢磨は凄いものがある。

 

 2人は、戦時中にラジオで、サンサーンスの「ベートーヴェンの主題による変奏曲」を連弾したが、ギレリスの方も、異常なほどリヒテルを意識していた。モスクワでは若きリヒテルも人気のピアニストだった。

 音楽院で少女を連れた婦人が、2人のピアニストに出くわしたエピソード。「御覧なさい。ソ連一の偉大なピアニストが目の前にいますよ。誰かわかる?」とギレリスを差して少女にささやくと、少女は「スヴェトスラフ リヒテル!」と叫んだ。ギレリスは慌ててその場を離れバタンとドアを閉めて去ってしまったと、リヒテルは回想している。

 

 決定的な亀裂の原因は、後年(60年代初めだろう)2人がピアノを教わっていた音楽院の教授ノイハウスに対し、ギレリスが「ノイハウスは私の先生でない」と新聞紙上でも宣言したことだった。ギレリスがノイハウスから教わったものは多かったが、教師とはいえ彼の演奏への批評が許せなかった。ギレリスはそれほどプライドが高かった。ノイハウスはその直後に亡くなったこともあり、ひどい仕打ちだと、それ以来、ギレリスと道で会っても顔をそむけたと、リヒテルは振り返っている。

 

 大戦後、55年オイストラッフが口火を切り、米国ツアーへ。続いてギレリス、ロストロポーヴィッチと、ソ連の優越性を示す音楽家として公演が許された。

 リヒテルは遅れて45年に全ソ連ピアノコンクールで優勝したものの、西側の公演はなかなか許されなかった。父親がドイツのスパイとして殺されており、母も再婚したドイツ人と一緒に国外脱出していたかららしい。米デビューは60年だった。

 西側での公演には、もちろんKGBがついて監視していた。こんななかで、亡命に成功する音楽家もあれば、不審死を遂げた音楽家もいる。そして、海外で高い評価を受けながら、ソ連に残ったギレリスやリヒテルのような演奏家もいた。後者の演奏家には、様々な悪いうわさがついて回った。

 91年のソ連崩壊後、リヒテルのインタビュー「Sviatoslav Richter notebooks and conveersations」は、広まったうわさを否定するために、彼の方が申し出て実現したものだった。

 ギレリスは自らを語るチャンスを得るはるか前に、モスクワの病院の誤注射で急死してしまったのだった。