ホフマンとのすれ違い

 若いころ、細と幾度か台湾旅行に出かけ、台北の繁華街でショッピングを楽しみ、レコード店でも買い物をしたものだった。台湾、香港の歌手のカセットテープのなかに、クラシック音楽のテープも置いてあり、漢字表記のアシュケナージのカセットを見つけ買ったのだった。

 

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 カセットは、アシュケナージがピアノと指揮をしたフィルハーモニアの、モーツアルトのピアノ協奏曲を収録したものだった。当時はやりのカセット用のウォークマンで、ホテルやプールサイドで聴いたのをよく覚えている。

 アシュケナージというとモーツアルトの演奏が、台湾の思い出とも重なり、一番好きである。阿胥肯納吉=アシュケナージ、愛楽=フィルハーモニアの表記だった。

  

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 今回パロットの「アシュケナージ 自由への旅」を読み直して、目を惹いたのは、チャイコフスキーの1番の協奏曲について。

 63年にマーゼルの指揮で一度だけ録音したが、そのあと録音を封印していることが記されていた。派手なこの曲に惹かれないこと、さらに「自分の比較的小さい手で自ら満足できる演奏をするのが困難なことを常々口に出していた」と。「あの手のオクターブ技巧は僕向きじゃないね。ジョン・オグドンとかヴァン・クライバーンとかホロヴィッツに向いてるんだ」

 

 リヒテル、ギレリスは大きな手で堂々と演奏しているが、手の小さなピアニストにはキツイのかもしれない。演奏技術の高いチェルカスキーも、レコードを聴くと苦労している感じである。

 

 上掲書に、もう一か所気になる表記があった。初の米国公演で、ニューヨークタイムズの音楽担当、ハロルド・ショーンバーグが、アシュケナージに長時間インタビューした際、さかんにヨゼフ・ホフマン(1876-1957)のレコードをかけて、アシュケナージに聴かせたというくだりがあったことだ。

 

 ピューリッツァ賞受賞のこの音楽評論家の努力の甲斐もなく、アシュケナージは全くホフマンに関心を持たなかったとしている。

 

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 ホフマンは、クラクフポーランド)に生まれ、10歳で欧州公演。翌年の1887-88年の年末年始に全米デビューした神童だった。

 ペテルブルグ音楽院のアントン・ルビンシテインにピアノの個人指導を受け、再渡米。長らくカーティス音楽学校で教鞭をとった。A・ルビンシテインが個人指導したのは彼だけだったとの伝説がある。

 

 私は、猫のいる古レコード店で手に入れたホフマンのレコードを聴いて、自由で、心弾む演奏にすぐさま好きになってしまった。(「蜜蜂と遠雷」に出てくる天才ピアニスト風間塵は、私のなかではホフマンを思い浮かべる。)

 

 彼は小さな手のピアニストで知られていた。ピアノ製作のスタインウェイは彼のために鍵盤の狭い特製ピアノを数台作ったこと、ラフマニノフは、ホフマンにピアノ協奏曲3番を献呈したが、手の小さな彼は、弾かなかった逸話が残っている。

 

 ショーンバーグが、ホフマンをアシュケナージに聴かせたのは、手の大きさのこともあったのか、とふと思った。

 

 ショーンバーグは「演奏の自然さ、高揚感、勢い、大胆さ、そして捉え難いリズム感は並外れたものだった」「大音を響かせるヴィルティオーゾではなかったとしても、同様の力強さを持ち、誰にも負けない音量を響かせることができた」(「ピアノ音楽の巨匠たち」訳後藤泰子、2015年、シンコーミュージック・エンタテイメント)とホフマンについて語っている。

 

 壮大なリヒテルやギレリスとは異なるピアノ芸術のヒントを伝えようとしたのかもしれない。そのとき、アシュケナージがホフマンの音楽にちょっとでも関心を持って居たらな、と残念に思う、勝手ながら。