ソ連時代のアシュケナージ

 かつて社会主義体制のころのA国の在日大使館に、知人と出かけたことがある。大使館員と雑談をしていると、大使館員は急に、知人の持つ情報に関心を持ったらしく、机のスイッチを入れ、改まった様子で声を大きくして、A国の言葉で質問しだした。

 

 私はあっけにとられたが、知人がその時B国で教師をしていたので、B国におけるA国に関する情報を聴取録音したらしい。大使館を出て、一緒に歩きながら、知人は「本国に報告して、自分たちは仕事していますよ、とアピールするのだろう」と、慣れた様子だった。B国で、A国に関する本は出ているか、教育ではどうか。B国民はA国をどう思っているか、大した内容ではなかった。

 

 社会主義ソ連では、バカバカしくも、恐ろしい諜報活動が行われ、音楽家たちも巻き込まれていたのだった。

 ソ連から、ロンドン、アイスランドに移住し、晴れてアイスランド国籍を取得できたピアニスト、アシュケナージは、1950年代モスクワの音楽院在籍時に、KGBの諜報活動の協力を依頼されたことを勇気をもって告白している。(「アシュケナージ 自由への旅」=ジャスパー・パロット、訳奥田恵二、宏子、音楽之友社、85年)

 

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 1955年ショパン国際コンクールで2位となり、注目されたアシュケナージに、翌年の冬ごろ、モスクワの音楽院の「指導室」が呼び出しをかけたのだった。「指導室」は、KGB内務省の直接管理下に置かれ、全面協力する部署という。KGBから派遣された男がひとりいて、彼にモスクワに居る外国人音楽留学生の情報収集を依頼してきた。

  何しろ秘密警察のKGB。彼は、恐怖のあまり、協力をすると文書に署名してしまったという。暗号名は「ミーチャ」と決定した。担当の連絡員が決められ、2、3か月に一度はホテルに呼び出されて、留学生に関する質問をされたのだった。

 

 1958年の米国公演デビューから帰国すると、米国で会った人物について聴かれ、その男は煙草を吸うか、酒は飲むかと、どうでもいい質問をされたという。まじめに報告しないでいると、別件でアシュケナージは取り調べを受けることになった。

 

 米国公演には、アシュケナージを監視する同行員がいたが、アシュケナージは米国で、「レーニンの説を曲げて、社会主義革命が起きない国もある、と語っていた」と報告されたのだ。文化省が嫌疑をかけ、5人の文化省職員と、音楽院の共産党青年組織の責任者に囲まれて審問された。弁護側はなし。有罪判決とともに、即刻出国禁止令が出た。

 KGBの連絡員からはその後も連絡があり、申し出を断ると「監獄に行きたいのか」と脅された。国際的評価が高まるピアニストに対し、一時動きは収まったが、1962年、チャイコフスキー・コンクールで優勝すると、KGB側は、逆に利用価値が上がったと判断したのだった。その後については書かれていない。

 

 6年後、なんとかロンドン移住を実現したアシュケナージだったが、今度は英国の秘密警察から面接を受けたという。

 

  社会主義の監視体制の下では、ソ連の天才音楽家たちも諜報組織が利用するべく、目を付けられ、脅されるのが現実だったようだ。芸術家に対するリスペクトがこれっぽっちもない。

 

 音楽だけに没頭できなかったソ連出身の音楽家たちの宿命と苦渋を思いながら、あらためて彼らの凄い演奏を聴いてみる。