私が好きな指揮者は、フリッツ・ライナー(1888-1963)。ハンガリー出身で、渡米後、主にはシカゴ交響楽団で活動した。DVDで指揮の様子を見ると、ほとんど腕を動かさず、大変地味なものだ。今だったら絶対人気が出そうにない。重度の肩こりのせいだった。
しかし、見た目は問題でない。感情に溺れることがない、情緒過剰でない、正確なリズムを崩すことのないクールな音楽演奏を聴かせてくれる。
ライナーが、1955年ソ連のピアニスト、エミール・ギレリスの全米デビューで、重要な役割を果たしたのだ。
RCAビクターが、チャイコフスキーのピアノ協奏曲1番を、ギレリスのソロ、ライナー指揮シカゴ響で録音したのだ。ギレリスの壮大で流麗で、迫力あふれる演奏には、この正確無比の、指揮者とオーケストラは最適だったと思う。結果、大成功。欧米で評判を呼んだ。
ライナーの伝記「FRITZ REINER A BIOGRAPHY」(PHILIP HART 94年)で、ギレリスに触れた部分を読み直してみた。
50年代半ば、東欧諸国では、社会主義ソ連のくびきから、自由を求める動きが、起きていた。
56年10月、ハンガリー動乱が勃発。ソ連支配下の政権を打倒するため、全国規模で反乱が起った。政府施設を占拠し、革命政府樹立を目指したが、圧倒的な戦力のソ連は、戦車を出動、反乱を鎮圧した。数千もの市民が殺害され、25万ものハンガリー人が国外脱出したとされる。
祖国の悲劇に、ライナーは、シカゴ響の公演で、ソ連のショスタコービッチの交響曲を急遽、ハンガリーのバルトークの管弦楽のための協奏曲に変更して、怒りを表明した。
この2年後の1958年、ギレリスが再び渡米してきた。ライナーはギレリスとの共演に強く抵抗した。契約していたRCAビクターは、圧力をかけて説得を試みた。公演のプログラム、ブラームスのピアノ協奏曲2番で、ギレリスを迎えることをライナーはしぶしぶ認めた。しかし、土壇場で、ギレリスがこの曲をキチンを覚えていないことに気づいたという。
木、金曜の2日に亘る、チャイコフスキー「ピアノ協奏曲1番」の公演を終えた後、彼らはブラームスの収録に取り掛かった。6時間半にわたって、細切れに収録。後は、録音技師の編集にゆだねた、という。いま聴いているLPは、Richard Mohrという腕利きのレコードプロデューサーの貢献度も高いのだった。
完璧主義のライナーは、はらわたが煮えくり返っていただろう。
伝記によると、「ギレリスは明らかにライナーの感情に気づいていなかった」。
そして「ある友人の話では、モスクワのギレリスの自宅にあるピアノの上には、2人の指揮者の写真が置かれている。ひとつは、トスカニーニ。もうひとつは、ライナーだと。」と、ハートは書いている。
後になっても、ギレリスはライナーに最大の敬意を表していたのだ。ギレリスは、愛すべき鈍感力の持ち主でもあったようだ。