春草の「黒き猫」と泣菫の一言

 重要文化財「黒き猫」の作者、菱田春草(1874-1911)は明治時代、日本画の改革を進める岡倉天心横山大観らとともに、日本画壇から猛反発を受けながら、新しい日本画の道を切り開いた人物として知られる。

 36歳で亡くなったため、大観の陰に隠れているが、大観は春草こそ本当の天才といい、後年小川芋銭が「黒き猫」を宋代の写実画に遡っても簡単には得られない「神品」と激賞している。

 しかし存命中は一部以外からは評価されず、遺作展で明治天皇が作品を購入してから一気に人気、評判が高騰したという悲しい現実がある。

 

 「黒き猫」部分



 春草は死の前年に発表した「黒き猫」のほかにも、白猫など猫の作品を残している。村松梢風「本朝画人伝」(1948年、雪月花書房)には、「黒き猫」の制作の2か月前、木挽町の小家で雨宿りした際、少女から手習筆を借り、彼女のハンカチに猫を描き、春草筆と落款を入れたと書いている。

 

 ところが、春草は猫が嫌いだったと、薄田泣菫が書き残しているのがずっと気にかかっている。

 春草の没後数年経った大正初めに「猫と新思想」を大阪毎日新聞に掲載した泣菫は、その中で、春草の猫の絵を見て、「黒猫」を書いたアラン・ポオ、アンゴラ種の猫を撫でながら創作したボオドレエル、遺産を猫に残した政治家リセリウなどと同様に春草も「猫の眼を通して神秘の淵を覗き込まうとする一人かと思った」と書きだしている。

 それが、「聞いて見ると、菱田氏は動物のなかでも猫が一番嫌いだったといふ事なの」だった。「理由を訊ひて見ると、その動物の有つてゐる阿諛(おもね)るやうな、嬌えた声で、物を強請(ねだ)る容子がどうも性にあはないといふのらしい」。

 泣菫は、「画家ともあらうものが、趣味の低い一般の人達と一緒に、動物にまでそんな見方をするのかと、それが気の毒でならなかった」と怒り口調なのだった。

 

 泣菫とあろうものが、「趣味の低い一般の人達」という表現をしたことに違和感を覚えるとともに、なんだか、不当な言われ方をする春草が気の毒になった。春草を自分なりに調べて見た。

 

 

 春草は1903年、29歳の時、6歳年上の横山大観に誘われて、英国植民地下のインドへ渡航している。インド東部に存在した藩王国、ティパラ王国の宮殿の装飾用の絵を描くためだった。

 前年王国を訪れた天心が、国王から宮廷の装飾を頼まれ、日本美術院の同人横山大観に振り、大観は春草に助けを求め一緒に渡航したのだった。

 ところが2人は、カルカッタに到着すると英国の官憲の監視下に。英が2人の王国への入国を禁じ、宮殿の装飾は英画家が行うことに変更したのだった。日本画家が藩王国宮廷の仕事に関与することは、植民地支配下で不穏な動きとされたのだ。

 間に立ったインドの詩人タゴール(後年アジア人初のノーベル文学賞受賞)が2人の面倒を見た。3か月カルカッタに滞在した2人は、インドの仏蹟などを旅行し、日本画を多数創作。タゴールの計らいで開催された展覧会では、予想以上の収入を得ることが出来た。2人は渡欧を決め、英国行きの船の切符を購入したが、日露戦争開戦前の険悪な国際情況を知り急遽帰国したのだった。

 大正15年刊行の「大観自叙伝」(中央美術社)は若き日の大観と春草の冒険談が描かれ大変興味深い。

 人騒がせな天心は、翌37年2人を誘って渡米する。春草らが伊予丸に乗り込んだ日、対露宣戦布告がなされたのだった。乗客らは上甲板に集められ、突然訪問した伊藤博文の講話を聞かされた。英国派遣の末松謙澄が乗船していたためだった。

「宣戦布告の詔勅が下った。太平洋には露国の軍隊が頻りに出没してをるからこの船は果して無事にシアトルに到着するかどうかは判らない。私の身も、亦同じ事で或はこの船が太平洋の藻屑になり、私の身は朝鮮の土になるかも知れぬ」。

 春草ら乗客一同はシアトルに入港すると「思わず万歳を口にした」のだった。

 ニューヨークでも彼らの日本画が売れ、ボストン、ワシントンと各地を廻り、余った2000円を資金難の日本美術院に送金するほどだった。1年後、2人は大西洋航路でロンドンへ。夏目漱石がかつて住んだ下宿に滞在し、ロンドン、パリで展覧会を開いた。大観の一人娘の訃報に2人はドイツ客船に乗りこんだが、ドイツはロシアと親交を結んでいたので「言語に絶する冷遇を受けた」。「吾々日本人に対して云ふべからざる憎悪を感じていたからであらう。二人は虐待に近い冷遇を長崎まで耐え忍んだ」と大観は振り返っている。

 

「黒き猫」の作者は、大観とともに戦時下で貴重であるが危険な海外体験をしていたのだった。帰国後、五浦時代を経て、春草、大観は大作を発表していくが、春草は目を患い、正面の人物の半身が欠けて見える症状が出て来たと、梢風は書いている。死の前年に5日間で描き上げたのが、「黒き猫」。柏の幹の上で、ふわふわとした毛並を感じさせる黒猫。たとえ作者が猫嫌いだろうと、取るに足らないことのように思えてくる。

 

 春草が大観とともにカルカッタタゴールに贈ったインドの歴史画など15、6点は、1923年、当地在住の千田氏がタゴール家から譲り受け、20年ぶりに日本に里帰りできるはずだった。ところが、博物館に保管される寸前で関東大震災が発生。搬送が「僅か一二日遅れた為、十二年の震災に全部消滅してしまった」(大観自叙伝)と書かれている。

 長生きした大観とは違い36歳で没した春草にとっては、インド時代の作品は、より貴重なものに思われる。歴史の大波は残酷である。