喜田貞吉

日除けと馬の毛製「おいかけ」

猛暑が続いているので、事務所への通勤は帽子が欠かせないようになった。それでも、首のうしろ、左右の耳にじりじりと日が当たる。 王朝時代の武官は冠とともに、冠の左右に「おいかけ(緌)」という扇のようなものを着けていた。軽いものだったようだ。あれ…

法隆寺元禄再建論について

NHKの「ブラタモリ」で法隆寺を訪ねる回(4月9日放送)があった。 約1300年前に再建された同寺の金堂を紹介しながら、300年前の江戸時代の装飾を紹介していた。金堂の2階の軒を支えるために江戸時代に柱が加えられ、柱には龍が巻き付いている。倶…

法隆寺再建論争の恐ろしい誤記

テレビで米国の情勢をとうとうと語っていた経済研究所の所長が、秋の大統領選を前にトランプがミスを連発して自滅気味なことを、「漁夫の利でバイデンが有利になっている」と話していた。漁夫の利という言葉の意味を取り違えている、この程度の人の話を信用…

喜田貞吉の「悲惨なる僥倖」

なぜ、喜田貞吉が法隆寺の老人、北畠男爵に気に入られたのか。 ヒントになるのが、喜田が還暦の時に発行した「六十年の回顧」(昭和8年)の記述だ。 喜田は明治38年法隆寺に二度目の訪問をしたときに、奈良女子高等師範の水木要太郎に北畠邸に連れていか…

法隆寺国宝仏をカンカン叩いた男爵

息子夫婦が近所に越して来てから久しく、孫を連れて遊びによく来るが、先だっては、夫婦で訪ねた京都の寺の話になった。副住職に檀家の墓地に連れていかれ、周囲の墓をペタペタ叩いて、墓石の説明をされたという。ペタペタペタペタ。止むことがなく、そんな…

富士山頂で野球を企画した人物

大正8年、喜田貞吉が新雑誌「民族と歴史」の発行に乗り出し、今まで熱心に編集に携った「歴史地理」から距離をとった時から、「歴史地理」の表紙も変化した。 MTのサインの表紙から、まったく作風の違ったものに変わった。翌9年7月号の特集「富士山号」が…

森田恒友と喜田貞吉をつなぐ薄田泣菫

明治末から大正、昭和初期と、歴史家喜田貞吉が編集で腕をふるった学術誌「歴史地理」の表紙やカットを、画家で版画家の森田恒友が担当していたのではないか。その仮説で、何年も書いてきた。 森田らが創刊した版画誌「方寸」掲載作など森田の初期の作品に、…

幸徳事件と虚子

明治43年の幸徳事件は、初等教育用歴史教科書の文部省担当官の喜田貞吉ばかりか、俳句誌「ホトトギス」の主宰高浜虚子にも大きな転機を齎したのを、最近知った。 同誌から生まれた作家夏目漱石のように、小説家を目指し作品を発表していた虚子は、同年「ホト…

コロナとニュートン

先輩からGWの前にがあり、「水戸黄門の現役時代、ロンドンはペストで閉鎖された。ケンブリッジ大のひねくれ学生が、ロンドンを脱出し田舎で18か月過ごすことになった。その間、学生はぼんやり庭でリンゴの実が落ちるのを見て、万有引力の発見をした。数学…

喜田貞吉の旅行記で描かれた那珂通世

南北朝正閏問題が起きる6年前の明治38年5月に、三宅米吉と喜田貞吉は清国への視察旅行で同行している。日露戦争中の陸軍招待によるもので、東京師範学校幹部ら一行は日本海海戦のさなかに出発した。一行は 嘉納治五郎 高等師範校長 当時 44歳 那珂通世 〃 …

喜田貞吉と米吉祝賀会

ここまで書いてきた三宅米吉のことは、多くの歴史家、教育学者らの記述がもとになっていて、新史料があるわけでないのが、心苦しい。ただ、長年断続的に、米吉のことを考えてきて、「三浦安」を補助線にすると、別のことが見えてくるのではないか、という思…

大正期「民族と歴史」の三越広告

ささやかながら手持ちの歴史、考古学系の学術雑誌の広告を調べてみた。 裏表紙の広告は、書籍の広告が大半だったが、4冊だけ違うものがあった。 「歴史地理」大正6年8月 大日本麦酒(株) 「民族と歴史」大正9年12月 三越呉服店 大正11年4月 三越呉…

考古学者「榊原政職閣下」のこと

「黒猫」を書いた薄田泣菫に興味を持って、随筆を読み始めている。「茶話(ちゃばなし)」には、明治、大正期の名だたる政治家、作家、画家、学者の素顔を描き、時に笑い飛ばしている。歴史学者の喜田貞吉もお婆さんのような笑顔をからかわれ、「広辞苑」の…

嵯峨の長慶天皇陵

この夏の京都のひとコマ。JR嵯峨嵐山駅前のいのうえで夕食を取り、嵐電嵯峨駅から、京都の四条河原町に戻る時、嵯峨野の寺の副住職に 「ちょっと面白いところがありますから見て帰ってください」 といわれ、深まる夕闇の中、連いて行った。 踏切を越えて、…

森田恒友と大正の「歴史地理」再び

大正時代の学術誌「歴史地理」(大正5年)の表紙や挿絵に、画家で版画家の森田恒友が関わっていたー。と、以前に書いたが、そのまま打っちゃっていた。 翌6年7月の第30巻第1号を手にいれた。森田画伯のものと思しき、同じサインが刷られていた。 同人…

大正時代、京都の気になる挿絵画家

前に書いたけれど、大正時代の始めに発行された「歴史地理」は、著名な画家であり版画家であった森田恒友が表紙やカットを飾る洒落た学術誌だった。 東京に、ひと足遅れて、京都で発行された似た名前の学術誌「歴史と地理」も、デフォルメしたエジプト壁画を…

通夜で猫を近づけるな!の訳は

前に書いたが喜田貞吉という精力的な歴史学者が、論文を書きまくり、発表する場所が足りなくなったので、自ら新規に雑誌を立ち上げた。 大正時代のその「民族と歴史」を10冊ほど手に入れたので、ぱらぱらめくってながめている。 こんな雑誌 読者の報告記や…

英国テニスの椿事から、大正期の名もない編集者のことなど

WOWOWのウインブルトン・テニスの中継を深夜遅くまでみて、寝不足の毎日だ。 英会話のスチュワート先生はロンドン育ち。ハイスクール時代に、マッケンローとゲルレイティスにサインをもらったことがあるという。ウインブルドン前哨戦として、芝のロンド…

なぞの、猫好き版画家は、森田恒友かあ

大正5年の「歴史地理」に掲載された、 この版画の作者さがしをつづけてみた。 明治末から大正にかけて、創作版画のうごきがあったので、 似た雰囲気のものをさがしてみたところ、 明治40年(1907年)に創刊された、同人誌「方寸」にでくわした。 山…