英国テニスの椿事から、大正期の名もない編集者のことなど

 WOWOWのウインブルトン・テニスの中継を深夜遅くまでみて、寝不足の毎日だ。
 
 英会話のスチュワート先生はロンドン育ち。ハイスクール時代に、マッケンローとゲルレイティスにサインをもらったことがあるという。ウインブルドン前哨戦として、芝のロンドンのクイーンズ・クラブで開かれるクイーンズ・クラブ選手権(エイゴン選手権)を友達の父子と観戦した時のこと。
 当時客席はシャンペンを飲みながら、ゆったり観戦する雰囲気だったという。マッケンローが登場したコートで友達の父がシャンパンの栓を抜いたところー。ポンという元気のいい音とともに、栓は放物線をえがいて、マッケンローのコートまで跳んでいったそうだ。
 おそろしい。よりによって、マッケンロー。スチュワート先生は、「僕も友達も、もちろん当人大慌て」。マッケンローは気づいたが表情を変えなかったという。
 
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「歴史地理」のイラストに新事実。明治45年6月発行の「歴史地理」の、喜田貞吉論文「檜隈大内陵」にもエジプト風版画があった。サインはないが、これも森田恒友の作らしい。「日本考古学選集8 喜田貞吉」で見つけた。若し事実ならば、版画同人誌「方寸」が明治44年に終了した翌年、森田は「歴史地理」用の版画を制作していたことになる。
 
 森田を学術誌の装丁に起用したのは、あるいは優秀な編集者だったのではないか。発行人は、印刷者でもあった古藤田喜助という人物。喜田が南北朝正閏事件で文部省退任に追い込まれ、「歴史地理」の編集に打ち込んで論文を精力的に発表し、それでも足らず、自分で新雑誌「民族と歴史」を立ち上げた時も、喜田に付き合ったのが、古藤田だった。レイアウトや、実質的な編集も古藤田が手伝った可能性はある。小石川区表町に住居、仕事場があったようだ。「伝通院」界隈だ。
 
 喜田の文章に彼の名がでてくる。大正8年「民族と歴史」特別号の発行が遅れた言訳の編修後記だ。準備が遅れた自分も悪かったが、また「発行主任古藤田喜助君の愛嬢が六月二十日逝去せられたが為に、同君が本誌に専なるを得なかった」と。
 喜田が古藤田を頼りにしていたことが伺われる。 
 雑誌に、大正時代の自由な香りをもたらしたのは、喜田の力ばかりでなく、名もない編集者、あるいは複数の編集者たちだったのではないか。