嵯峨の長慶天皇陵

 この夏の京都のひとコマ。JR嵯峨嵐山駅前のいのうえで夕食を取り、嵐電嵯峨駅から、京都の四条河原町に戻る時、嵯峨野の寺の副住職に

「ちょっと面白いところがありますから見て帰ってください」

といわれ、深まる夕闇の中、連いて行った。

 

 踏切を越えて、静かな道を右折すると目の前に、天皇陵「長慶天皇嵯峨東陵」があった。人けが全くない。

「どうしてこんな所に?」

「面白いでしょ、いろいろわけがあるようですよ」

と副住職。駅まで戻り、見送られながら、また、ひとつ「宿題」を与えられたと思いながら、嵐電に飛び乗った。

 

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  長慶天皇は、南北朝時代南朝方だった。長い間天皇として認められていなかったが、大正15年10月21日になって、「詔書」で98代の天皇として即位が認められた(「皇統加列」)。

 

  背景に「南北朝正閏問題」があった。1336年から1392年の57年間、南朝北朝による内乱があり(南北朝時代)、両朝が天皇を立てたため、後世、どちらが皇統として正当だったのか、諸説繰り広げられた。

 北朝正統、南朝正統、南北朝並立。

 徳川幕府は、北朝正統。明治政府は南北朝並立の考えだった。大逆事件をきっかけに南北朝の問題がクローズアップされ、一気に南朝正統論が熱を帯びた。

南北朝並立説」を採っている国定教科書がやり玉にあがり、新聞が世論を焚き付け、議会で野党が追及。明治44年、第2次桂太郎内閣は、「南朝正統」を閣議決定して騒ぎを収めた。

 教科書担当者で、当時文部省の編修官だった喜田貞吉が一人世論の袋叩きにあい、家族の安全も危うくなり、家に警察の警備が付くほどとなった。責任も喜田だけ休職処分を取らされた。(喜田をかばったのは、並立説の歴史学者三上参次くらい。教科書の大御所で並立説だったはずの歴史学者三宅米吉が沈黙したのを喜田は恨んだようだ)

  この南朝正統の決定を受けて、「天皇皇族実録」の編修者で歴史学者宮内庁の御用係、芝葛盛(かずもり)が、大正5年8月「長慶天皇ヲ皇代ニ列シ奉ル議」を起草、上申し、10年後に正式に天皇として認められたのだった。

 ただし、この天皇は、ほとんど事跡を残していない。

 父が後村上天皇。生母・嘉喜門院(「その御姓名御出自については不明である」=芝「元中東宮考」)

 弟が後亀山天皇で、長慶天皇の後に南朝即位したこの後亀山天皇は、足利義満の講和条件を受諾し、北朝後小松天皇三種の神器を伝えて譲位した(南北朝の終焉)。後亀山天皇は吉野を出て、嵯峨の大覚寺に移った。当時この嵯峨野が舞台だったのだ。(御亀山天皇は、その後幕府に両統迭立を破られたため怒って吉野に潜幸。1416年に和睦してまた大覚寺に戻った)

 

  さて、なぜ嵯峨に長慶天皇陵が出来たか。天皇陵の研究をしている外池昇氏がいきさつを書いていた。「長慶天皇陵と『擬陵』」(2017年、日本常民文化紀要)。

 昭和10年「臨時陵墓調査委員会」(黒板勝美、辻善之助、荻野仲三郎、芝葛盛委員)が結成され審議。天皇の終焉地が記録に残っていないため、長慶天皇の陵墓があると言い伝えがある全国67ヶ所を検証することに決まった。青森から奄美に及ぶ候補地を検討したが、結論はいずれの地も「偽作偽物ニ拠ルモノ」。見つからなかった。

 

 政府は、皇紀2600年(昭和15年)までに治定したいと進めたが、間に合わず、昭和19年、長慶天皇の由緒の深い、天龍寺塔頭「慶寿院址」に「擬陵」を造ることでとりまとめた。(時間を要したのは、宮内次官の白根松介が「擬陵」の考え方と「皇室陵墓令」44条の整合性にこだわり、議論を重ねたためだった。)

 

 陵墓には、葬るものが見当たらないため、長慶天皇関連で残る唯一の御宸筆の御願文を原寸大で石に刻んで葬ったという。

 

  あらためて、夕暮れの長慶天皇陵を思い起こす。

 明治後半の南北朝正閏の騒ぎがめぐりめぐり、その後始末に時間がかかり、昭和19年、敗色が濃くなった戦時下でやっと、南朝から新たに加わった天皇の陵墓造営にこぎつけた。それがこの陵墓だった。

 

 歴史遺産といっても、「近代史の文化遺産」といった方がいいかもしれない。長慶陵について、嵯峨の住民の副住職が一言でいえなかった理由が分かったような気がした。