日除けと馬の毛製「おいかけ」

 猛暑が続いているので、事務所への通勤は帽子が欠かせないようになった。それでも、首のうしろ、左右の耳にじりじりと日が当たる。

 王朝時代の武官は冠とともに、冠の左右に「おいかけ(緌)」という扇のようなものを着けていた。軽いものだったようだ。あれは日除けではなかったか、と炎昼にひらめいたので、調べてみると。

 

 

 江戸時代の京の有職故実家速水常房(1700-1769)は、平安時代中期の辞書「和名抄」に「緌 又云於以加計」と記されていることから、於以加計(オイカケ)は「オホヒカクルといふ事也」(禁中名目抄の註)と、顔の側面を覆い隠すものと解釈していた。日除け説もまんざらではなさそうな気がしてきた。

 しかし、伊勢流有職故実家の伊勢貞丈(1718-1784)が反論。「於比加計(オヒカケ)」であるならばオホヒカクルはあり得るが、「於以加計(オイカケ)」なので、「置い懸け」としか解釈できないとした。置いて緒に懸けたもの、となると日除け説は遠のいてしまう。

 

 ひらめき型の歴史学者喜田貞吉(1871-1931)は、「おいかけ」は隼人の「耳形蔓(みみがたかずら)」と同類ではないかと、一文を残している。(「歴史地理」大正6年2号)

 耳形蔓の絵が残っているわけではなく、「延喜式」に記されているだけなのだが、やはり面白いひらめきのような気がする。

「おいかけ」は、「馬の尾の毛で扇形に作ったものを掛緒でつける」(大辞泉小学館)と現代の辞書は記していた。馬の尻尾製だったのだ。馬の尾の毛といえばバイオリンの弓が同じなので少し身近に想像できる。

 さて、隼人といえば、色鮮やかな渦巻きデザインの盾が思い起こされるが、この盾の上部が馬の毛で覆われていたことが知られている。

 隼人は警護の武人であり、馬の毛という共通項を考えると、喜田貞吉の隼人の耳形蔓説はまんざらではないのだ。

 

 盾、「おいかけ」に用いられた馬の毛は辟邪、魔除けとして考えられたのだろうか。

『今昔物語』巻26の13話に長いおいかけをつけた武人が出てくる。

 めずらしい「おいかけ」なので男は「上緌の主」と呼ばれたという。ある時、馬に乗って京都の西八条と京極の間の畑に差し掛かると、夕立にあった。粗末な一軒家で雨宿りをすると、媼がひとり暮らしていた。長者がかつて住んでいた家というが、いまは周辺に人家もなくさびれていた。

 男が屋内で石だと思って腰かけた所、感触が違った。手でたたくと窪む。なんと銀の塊だった。男は自分の衣を媼に渡し、かわりに銀を持ち出し、人を呼び車に乗せて家に戻った。上緌の主は、この銀を元手に富を増やし、やがて長者になったという。

 

 おいかけは、日よけにも役立ちそうなうえ、金運を運ぶ縁起物なのかもしれない。。