富士山頂で野球を企画した人物

 大正8年喜田貞吉が新雑誌「民族と歴史」の発行に乗り出し、今まで熱心に編集に携った「歴史地理」から距離をとった時から、「歴史地理」の表紙も変化した。

MTのサインの表紙から、まったく作風の違ったものに変わった。翌9年7月号の特集「富士山号」が手元にあるが、それも同様だ。

 

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 編輯兼発行人は、花見朔巳。編輯人が変われば、色も変わる。富士山特別号は、結構興味深い。

 例えば、横井春野「富士登山案内」。「富士登山が勃興して来たのは、日露戦役後からであって」「年々多きを加へ、今では、富士は、白衣の徒の専有から全く解放せられて」「昨夏、私が、頂上で、野球、謡曲大会を開催した時などは、一日に三千五百人からの登山者があった」「私は富士山と云ふよりも、富士公園と称する方が穏当だと考へる」などといったようなものも掲載されている。

 

 この横井春野という人物は興味深い人物だ。

 アルプス、富士登山など登山家としてばかりでなく、大正から昭和へかけて、野球、テニスなどスポーツの普及に貢献し、雑誌「野球界」の主幹をし、スポーツの歴史書、技術書を上梓している。大正時代に一時普及したものの、女子には向かないとされ衰退した女子野球を、昭和に入っても根気強く奨励した人物として、中京大学の研究者がクローズアップして、2016年に日本体育学会で発表している。

 富士山頂で野球大会を開催したのも、野球の普及活動の一環だったのだ。

 

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 しかし、これだけでない。早大文学科史学科を卒業した横井には、「能楽全史」(昭和5)「世阿弥の生涯」「日本商業史」(昭和元)などのこれも多数の著書があり、能楽研究、商業史研究と、ジャンルが幅広いのだ。

 

 この「富士登山案内」でも、「登山心得」の項で、

  1. 登山は、急ぐことが禁物である。気をおちつけて、一歩一歩登られねばならぬ。狂言式に、「ソロリソロリとまゐらふ」と云ふのが登山の秘訣である。

 といった独特の表現が目を引く。富士山頂で野球と共に「謡曲大会」を開催したのも、この人の関心分野だったからだった。こういう人物がいたのだな。