森本六爾の颯爽デビュー

   昭和2年の「研究評論 歴史教育」に掲載された東京高等師範教授中村久四郎と森本六爾の共著の広告を見てみると、

 中村の肩書は「東京高師教授 史料編纂官」

 森本の肩書は「東京高師歴史教室」となっている。ともに「先生」と書かれている。

 

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 三宅米吉東京高等師範校長副手という採用ながら、森本は「先生」と表記され、「東京高師」の一員として認知されたことが分かる。

 

 中村久四郎は、東洋史学を専攻し、明治40年から東京高師教授を務めていた。日本史の木代修一(当時は東京女子高等師範教官)らとともに、東京高師校長の三宅米吉の下で、歴史学研究を進めていた仲間だった。

 

 森本編輯の「考古学研究」創刊に合わせて、同じ昭和2年7月、中村久四郎、森本六爾共著「日本上代文化の考究」が出版されたわけで、森本と考古学研究会の船出を輝かしく飾ったといっていいだろう。

 この著作には、森本が副手就任後に発表された数多くの論文のうち、「日本上代の櫛と簪」(教育画報)、「前方後円墳の外形の起源に就て」(考古学雑誌)などが収められた。 

 四海書房は、北原白秋とも親しかった歌人の四海民蔵が起こした出版社で、歌集や実用物の出版が多かったが、大正から昭和に入ると、突然歴史の学術書が立て続けに発行された。昭和2年に発行された「研究評論 歴史教育」は、この中村久四郎教授が編輯にあたっていた。

 

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 同誌の奥付に、編輯兼発行者四海民蔵と明記されているのはなにか事情があったのだろうか、編輯後記には「中村究史楼学人記」とあり、究史楼は「きゅうしろう」=久四郎が実質的な編輯長だったことは間違いない。 

 昭和の初め、四海書房に東京高等師範学校から、アプローチがあったのだろうか。東京高師の中村教授が「歴史教育」、同校歴史教室の森本が「考古学研究」を四海書房から相次いで創刊し、彼らの単行本も上梓されたのを見ると、同校と出版社の深いつながりを想定せざるをえない。この一連の背後に、三宅米吉の存在があったのではないか。

    同年三宅は、東京高等師範学校長として、政府、文部省との粘り強い交渉の末、大学昇格認可を勝ち取った「東京文理科大学」の2年後の開校準備に取り掛かった。

 4年には、東京文理科大学長となり、大学でも自ら一教授として歴史教室を持つことになった。「古希」を祝う会も盛大に行われ、新しい一ページが幕を開けたのだった。歴史教室では三宅が手足のように使って来た森本の起用を当然考えていたのだろう。

 森本の輝かしい将来がそこまで見えていたのだと思う。同年11月三宅の突然の死ですべてが変わる。