紫の風呂敷包を持ち運んだ六爾

 歴史学者であった三宅米吉は、大正8年から5年間、東京高等師範学校の学校挙げての騒ぎの渦中にいた。

 同年一橋大の前身、東京高等商業学校が、いち早く中橋文相の許可で大学昇格(東京商科大)が決まったためだった。蔵前にあった高等工業高校(現東工大)の学生が、これに怒り大挙して文部省に押しかけて文相をつるし上げ、昇格を口約束させる事態となった。

  取り残されたのが高等師範学校だった。一ツ橋高商だけどうして先に大学昇格させるのか、学生たちが怒り、学校一丸となっての騒ぎとなった。校長だった嘉納治五郎原敬首相に直談判に出向いたが、結果元老の山縣有朋の怒りを買い昇格運動は不当だから学校閉鎖もやむなし、と廃校になる可能性も出てきた。

 嘉納校長は三宅教授を伴い、中橋文相を訪問。三宅が事態を収める役割を担った。怒りの学生たちに、「教育者養成のための大学は必要と認める」という文相から言質をとったことを読み上げて披歴し、運動を一時休止することで最悪の事態を回避した。

 翌年責任を取らされて嘉納校長が辞職。三宅が後任を託されたのだった。昇格運動は、その後も次々障害に出くわした。大正10年原首相が高師を含む「5校昇格案」を取りまとめたが、11月に凶刃に倒れ立ち消えになった。

 大正11年は衆院通過したものの、貴族院が握りつぶして実現しなかった。このとき、温厚な三宅が「職を賭して昇格の実現を期せん」と檄を飛ばして、周囲を驚かせた。

 大正12年、加藤高明内閣に代わり、三宅の同郷の鎌田栄吉が文相就任、3月には昇格案が貴族院でも可決された。ところが9月に関東大震災が起き、大学昇格は昭和4年まで延期となったのだった。(以上、築山治三郎「三宅米吉その人と学問」(図書文化、1983年)参考)

 

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 大正15年、三宅が森本六爾を副手として採用したときは、一連の昇格運動の決着がつき、震災からも2年経った時期だった。校長としての仕事から、教授としての歴史学への切り替えの余裕が生まれていた。

 当時学生で講義を受けた築山治三郎は当時の様子を、上掲書で振り返っている。

「全く美しい白髪で優雅で温容な風格があり、教室はあたかも春風駘蕩のようであった。/普通、講義でもいつもフロックコートを着用され、森本六爾助手が持ってきた紫の風呂敷包から毛筆で書かれた原稿を見ながら講義された」

 

 森本副手もおそらく講聴したのだろう。奈良の歴史研究旅行にも森本は、三宅や学生たちに同行した。

 校長のカバン持ちが森本の仕事であったわけではもちろんない。全国にいる卒業生たちから遺跡の情報が入ると、信頼する森本を考古学調査に派遣させた。

 大正15年には、森本に長野県中野市の積石塚の調査をまとめさせ、雄山閣から「金鎧山古墳」として出版。長野市前方後円墳調査は「川柳村将軍塚の研究」(岡書院)として、昭和4年に、これも森本の著作として刊行させている。