六爾に託した米吉のこと

 歴史学者としての三宅米吉について、なお書いておきたいことがある。

 今から振り返ると、晩年の大きな役割は、考古学徒の森本六爾を支援して、育てようとした事だったように思う。奈良県磯城郡桜井市)で生まれ、地元で熱心に研究を進めていた若き森本は、上京をしてさらに研究を深めようと考えていた。東京帝室博物館の高橋健自を頼って上京したが、期待していた博物館の仕事に就けず困っていた時、同博物館総長兼東京高等師範学校校長の三宅米吉が手を差し伸べた。

 大正13年4月に、三宅高等師範学校校長の副手として雇用を決めたのだ。森本は、東京での研究の大きな手掛かりを得ることになった。考古学徒として森本の熱意と人物を確かめて三宅が決意したのは間違いない。

 

 三宅は、口数が少なく、人を貶しもしなかった代わりに、人を褒めもしなかったと津田敬武が回想しており、森本への評価、期待は言葉として残っていないが、行動で十分推し量ることができる。

 

 自らの副手で採用した同年、さりげなく、会社勤めの民間の考古学者坪井良平に引き合わせたのも、三宅の深い考えだったのだと思う。

 森本の年譜によると

大正13年12月 三宅博士の使いで坪井良平を訪ね、いらい終生親交を深める」(浅田芳朗「考古学の殉教者」)

  久原コンツェルンの一、久原商事の重役秘書をしていた良平は、「銅鐘」の研究者だった。

f:id:motobei:20200828141450j:plain「考古学」掲載の坪井論文

 

 長男の考古学者坪井清足が「古代追跡」で、父と森本の思い出を書いている。

 「東京では牛込の矢来町に住み、(清足が)二歳のとき、その矢来で関東大震災にあいます。数年のち、同じ牛込の弁天町に移り」「そのころから、わが家には森本六爾さんをはじめとする考古学者が大勢出入りしていたのを覚えています

  坪井宅が、旧弊になった「日本考古学会」から、新しい動きが誕生する考古学徒の梁山泊となる。

「(日本考古)学界にどうもあき足りない、という人間が集まって考古学研究会という同人組織を作った」「そこで『考古学研究』という雑誌を、森本六爾さんが一切の面倒を見て出し始めたのですが、なぜか、わが家に『考古学研究』という表札を出していました」(坪井前掲書)。

 

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 昭和2年7月1日「考古学研究」が発刊する。編輯者は森本、編輯所は「東京市牛込区弁天町七九」と坪井宅になっている。

  明治20年代の「文」以来、雑誌作りはお手の物の三宅は、すべてわかって、森本を仕向けたのだろう。メディアを持つことの意味を森本に託し、支援する人物坪井、発行所(四海書房)とお膳立てを進める。出版に関しては、三宅はロンドン仕込みなのだった。

 

 「考古学研究」創刊号で、三宅は巻頭で、東京都下で出土した騎馬模様の埴輪について書いた。祝福なのだろう。

 翌昭和3年、結婚に反対する双方の両親が欠席したミツギ夫人との結婚式では、媒酌人鳥居龍蔵夫妻とともに、森本の親代わりで、三宅が出席している。

 

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 この年、三宅は「以文会筆記抄」(雄山閣)の発行の準備をし、同4年9月に発行した。最近私は、この本の212頁に「森本六爾校正」の文字を見つけて、少しびっくりした。

 校正者名をあえて掲載したことは、校正料による支援とともに、三宅が信頼する人物として保証を与えたということだろう。

 だが、この年、三宅は逝去する。

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 森本は、後ろ盾を失いながら、「考古学研究」からさらに充実した「考古学」を発行。フランス留学も敢行したが、帰国後、昭和10年夫人が亡くなり、同11年本人も病死した。森本のまいた種は、仲間の小林行雄らが後を継いで、戦後の考古学で花が開いてゆく。

 三宅米吉は、孫娘の三千代をとりわけ可愛がったが、昭和8年に長女が生まれると森本は「三千代」と命名している。森本の三宅への思いが伝わるように思う。彼女もまた、翌年夭折している。