清張「断碑」へのいらだち

 なんで、森本六爾について、むきになって書いているのか。自分でも考えてみた。

 

 おそらく、森本のモデル小説「断碑」を書いた松本清張によって作られたイメージにいら立ちを覚えるからだろう。

「当時の考古学者は誰も木村卓治(森本)の言うことなど相手にする者はいなかった。考古学が遺物の背後の社会生活とか階級制の存在とかいうことにまでおよぶのは論外だった。黙殺と冷笑が学会の返事であった」(断碑)

 まるで、森本が研究者の間で孤立していたかの強調は事実でない。京都帝国大学の考古学研究室を主導した浜田耕作も(熊田良作)の名で出てきて、初対面の時の森本の態度に怒ったことが描かれるが、後年独力で研究をする森本を気遣って「我々老人組は之(森本の研究活動)を助けるのが学会の義務」とまで語った人物だった。

 三宅米吉の死後、学校に所属せずに東京考古学会を組織し、「考古学」を発行した森本は、孤立したとされるが、浅田芳朗が制作した昭和6年の東京考古学会の会員名簿を見てみるとー。

後藤守一(「断碑」に佐藤卯一郎で登場するカタキ役)

梅原末治(杉山道雄の名で「断碑」に登場するカタキ役)

浜田耕作(熊田良作)

樋口清之石田幹之助金関丈夫/笠井新也/菊池山哉/清野謙次/小林行雄/三森定男/三輪善之助/直良信夫/中島利一郎/中谷治宇二郎/中山平次郎/新渡戸稲造/沼田頼輔/大場磐雄/折口信夫/斎藤忠/柴田常恵/島田貞彦/杉原壮介/辰馬悦蔵/坪井良平/和田千吉/八幡一郎/山内清男/柳田国男

 

 著名人だけでも、これだけの名がある。考古学者ばかりか、柳田国男折口信夫民俗学の大御所や、新渡戸稲造など錚々たる人物が、森本を注目し、支援していたのだった。

 

 「中学校だけの学歴の彼の一種の劣等意識からくる反発である。自分より高い教育を受けた同年輩や下のものに、彼は生涯、冷たい目を向けとおしであった」(断碑)

 こういう決めつけも極端ではないか。前にも書いたように、三宅米吉も高等教育を受けていない。独力で学習し、東京文理科大学学長になった人物だ。

 

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 むしろ戦後になって、同情を示すようにしながら、結果的に森本らの民間研究を矮小化する風潮が助長されたのではないか。

 門下の浅田芳朗が憤っているのは、昭和45年の考古学研究会の年次総会のことだ。

「新進の考古学者として令名の高いお方」が、「森本六爾論」というテーマで発表し、「「森本六爾を中心とする東京考古学会は、官学から疎外された者たちの自衛組織に他ならない」といいはなたれ」たのがショックだったと振り返る。

 森本、藤森栄一、杉原壮介という「偉大すぎるほど素晴しい業績を認めながらも敢て「官学から疎外された者たち」ときめつけられたのは、単なる官尊民卑的な思い上がり」であり「全く的をはずれた暴言」と怒っている。

 「私たちの納める税金から高い俸給を貰うばかりでなく、万端整い備わる研究施設を自由に使い、しかも役人という権力をバックに活躍される恵まれた碩学たちは、どういうわけで何かに全く恵まれない私たちを疎外されるのだろうか」と訴えている。

 

 実名は書いていないが、「令名お高い方」は、誰だろう。「森本六爾論−いわゆる東京考古学会グループの評価−  都出比呂志」と、その時の発表は残っている。

 

 三宅の後ろ盾を亡くした森本は、夫人の支えを得て、民間の研究会で大きな仕事をした。無理して私費留学もし、将来的に考古学研究に役立てるために、データベースの整備に手を付けた。弥生時代古墳時代奈良時代の墳墓の研究で成果を上げた。古墳を上空から観察する航空写真の考古学利用もいち早く提案した。門下生として、戦後活躍する考古学者を多数輩出した。

 三宅米吉が考古学者として森本に託したことは、生活苦に追われ、病魔に倒れながら、短い生涯で森本は十分果たしたのではないか。

 

 官学の学者以上の成果を上げた彼らの業績を見ないで、「差別された」学者として、同情という色眼鏡で見出したのは、戦後になってからだったのではないか。松本清張も僕には、そんな風に思えるのだ。