喜田貞吉の旅行記で描かれた那珂通世

 南北朝正閏問題が起きる6年前の明治38年5月に、三宅米吉と喜田貞吉は清国への視察旅行で同行している。日露戦争中の陸軍招待によるもので、東京師範学校幹部ら一行は日本海海戦のさなかに出発した。一行は

 嘉納治五郎 高等師範校長 当時 44歳
 那珂通世   〃 教授   〃 54歳
 三宅米吉   〃 教授   〃 44歳
 峰岸米造   〃 教授   〃 35歳
 町田則文  女子高等師範教授 〃48歳
 喜田貞吉  文部省図書審査官 〃34歳

「庚申鮮満旅行日誌」(大正10年「民族と歴史」)で、喜田は旅行を振り返っている。中身は、一行に対する陸軍の接待の違いを愚痴っぽく思い出したものだが、当時の様子が分かって興味深い。

f:id:motobei:20200506062206j:plain


 一行が丹後丸で広島・宇品港を出港するとき、陸軍は参加者の役人としての官位を調べたという。旅行中の待遇を決めるためだった。

 嘉納治五郎         高等官2等   将官待遇
 三宅、峰岸、町田、(那珂) 5等官以上   佐官待遇
 喜田            6等官     尉官待遇

 最年少の喜田は、文部省から派遣され、一人だけもっとも低い待遇だった。

 ▼往路丹後丸の待遇は「同じ様に船室が給せられて、食堂などでもあまり差別待遇を受ける事はなく、最も愉快に渡航した」と喜田。

 ▼大連の陸軍兵站部=この宿舎で待遇に差が出た。

 嘉納は、将官待遇で上等の個室(寝台、ソファ付)が用意された。食事も給仕付。
 那珂以外の三宅ら佐官待遇以下は、粗末な待遇だった。急造バラックの板敷にアンペラを敷いた一室で雑魚寝だった。食事もセルフサービス。喜田も一緒だった。
 ところが、那珂だけ、嘉納同様の待遇を受けた。那珂はある事情で、「無位無官」扱いだったためだという。

 「我等と寝食を共にした三宅博士と官職位勲まで全然同一の高等師範学校教授高等三等官従五位勲五等(?)の那珂博士は、嘉納氏と一所に別室を給せられて、すべて将官の待遇だ」。それを受け入れる那珂の態度にも「満足気なのには聊か皮肉の感があった」と記している。

 那珂が無位無官扱いになったある事情を喜田は書いている。 
 宇品港を出港するとき、那珂が遅刻したからだった。一行が官位姓名を調べられて、乗り込んでも姿を見せない。やきもきする中、錨が上がる直前に波止場に自転車で駆け付けた。そのため、名刺を提出しただけで、陸軍の名簿に官位の登録はされず、「無位無官の文学博士」待遇となったのだった。

那珂博士は隠れもない輪転博士だ。今度の戦地見学にも自転車御携帯だ。日本海海戦の為に宇品で船が出港を見合せて、我等一同は宿舎で大人しく其の警戒の解除を待って居る間にも、輪転博士のみは毎日アチコチと自転車を飛ばされる。出港の三十日にも早朝から備後の三次まで行かれ」た、と書いている。

 那珂は、54歳になっても、自転車を活用する行動的でモダンな学者像に見えるが、20歳年下の喜田はイライラさせられている様子が伺える。

f:id:motobei:20200506060841j:plain 後年の喜田貞吉

 

 ▼旅順ホテル=嘉納学長随行の役得

 大連2泊の後、旅順ホテルに投宿した。陸海軍には柔道の弟子が多く、嘉納治五郎校長の「持て方は一と通りでなく、自分等一同は其の随行員の格で至る所便宜を受けたのであった」と満足の様子を書いている。

 ▼復路の加賀丸=交渉して同格に

 帰途の船中でまた待遇に差が出た。喜田以外の五等官以上は、将官佐官待遇で別の食卓を用意された。喜田は、尉官待遇として一人引き離された。喜田は懇願して、「古参大尉」の格として一堂に合流できたと書いている。

 喜田は三宅との旅行を懐かしがっているように思える。教科書事件から10年経った大正10年に回想したものだ。
 喜田は、明治36年の論文で、皇紀を外国の歴史と対照するには600年を減じるのは学者間で一致していると、三宅の創刊した「文」での那珂論文などを高く評価している。そんな先輩学者との同行記は、歴史学者の別の素顔が伺えて興味深い。