船川未乾画伯と詩人竹内勝太郎と

 京の大正時代の洋画家船川未乾画伯の絵を表紙に用いた古書が届いたので、また画伯について調べてみた。本は、京都の詩人竹内勝太郎(1894-1935)の「随筆西欧藝術風物記」(昭和10年、芸艸堂)。

 

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 船川未乾の装幀本をざっと調べた。

 

大正10年 藤井乙男「江戸文学研究」(内外出版)

      川田順「歌集陽炎」(竹柏会出版部)

      ロシア文学アンソロジー「心の劇場」(高倉輝訳、内外出版)

大正11年 川田順「歌集山海経」(東雲堂)

昭和2年  園頼三「怪奇美の誕生」(創元社

      尾関岩二「童話お話のなる樹」(創元社

昭和3年  小田秀人「本能の声」(ぐろりあ・そさえて)

      竹内勝太郎「室内」(創元社

(昭和5年 未乾逝去)

昭和10年 竹内勝太郎「随筆西洋藝術風物記」(芸艸堂)

 

 以前に未乾装幀の川田順歌集「陽炎」に触れたが、翌年出版された歌集「山海経」もまた、未乾が装幀をしていたのが分かった。

 初版から10年後、春陽堂文庫として「山海経」が再刊されたとき、川田が、未乾画伯に触れていたのを見つけた。

 

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装幀畫は京都の洋畫家船川未乾と云ふ人が描いてくれて、非常に評判が良かった。惜しいことに、その船川君は巴里から歸るとやがて健康を害ねて、大分以前に病歿してしまつた。然も、その初版も關東大震火災に遭つて大分焼失したらしい。既に珍本となつて、予の手許にさへ一部しか残つて居らぬ。十数年は近いやうで遠いものだと、只今しみじみ考へさせられてゐる」(山海経再度の改訂に就いて)

 

 チョウチンアンコウらしい魚をあしらった表紙、見返し。

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 大正11年の東雲堂の初版でも川田順は書いている。

 

装幀に就いては、京都の洋畫家船川未乾君に非常な御厄介をかけた。原畫は藝術的の匂ひの高いものであつたが、版にしてはその趣致の半分も表れなかつた事を同君の為めにも御気の毒に思ふ。

 

 前作の「陽炎」の時より、川田自身が装幀を気に入っていた様子が伺える。

 

 この時も、未乾画伯を起用したのは、川田ではなく、出版サイドの東雲堂の歌人西村陽吉(1892-1959)だったようだ。

西村陽吉君経営の東雲堂書店から発兌したのであつたが、當時西村君とそれから矢嶋歡一君とが自分逹の事のやうにして何から何まで盡力してくれた」と、春陽堂文庫版のあとがきで振り返っている。

 西村は石川啄木「一握の砂」を出版した人物で、自身の歌集「第一の街」などを見ると、装幀にこだわりを持っていたことが知れる。

 

 詩人竹内勝太郎と未乾に戻ると、同じ京都で活動した2人は、大正8年に出会って親交を結んだと年譜にある。竹内は未乾より8歳年少だった。若くして上京してそれぞれ詩、美術を学び、京にいったん戻って、渡仏している―経歴もそっくりだ。

 

 太平洋を渡って米国に向かい、フランスからシベリア鉄道で帰国した竹内は、翌年未乾画伯の死にショックを受ける。乾性肋膜炎による病死。44歳だった。竹内は西欧の旅日記を刊行するにあたって、未乾画伯の絵を表紙に択んだのだった。

 

この旅行は確かに私の生涯の転機になったと思ふ。だからこの本は記念物と云ってもよい。そう云ふ意味から二人の旧い心友、故船川未乾君の絵で表紙を装ひ榊原紫峰君の跋文を以て巻末を飾ることが出来たのを私は心から喜ぶ。そして私はいつまでも青年の気持を忘れずにこの基礎から出発し直したいと考へてゐる」と文章を締めくくった。

 

 しかし竹内は、この本の完成を見ることが出来なかったのだった。私は、本書の最後の榊原画伯の追悼文を読んで驚いてしまった。

彼は黒部谿谷の探勝に出かけて、過ってその谿谷中に墜落して了った。然も探勝は、彼自らの本書校正中の事件であった

 1935年6月山歩きの単独行に出た竹内は、黒部渓谷で滑落したのだった。行方不明になり、捜索の末遺体が黒部川で発見されたのだった。

 

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 絶筆となった旅先からの葉書、事故現場の写真も掲載されていた。6月23日に奥飛騨の平湯に宿泊した竹内は、上高地に出る予定を変更し、鉄路で黒部渓谷の宇奈月温泉に向かった。25日同温泉から発信した葉書には、黒部川をさかのぼり、鐘釣温泉を目指すと書かれていた。

 丁度その頃、「黒部の父」とその後言われる登山家冠松次郎が、沢登りの技術とともに黒部渓谷を開拓し魅力を発信していた。1928年「黒部渓谷」、1930年5月「黒部」を刊行。竹内もおそらく目を通して、黒部渓谷にひかれたのだろう。

 

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 享年四十。彼もまた、未乾同様、象徴派詩人として将来を嘱望されながら途半ばで命を失ったのだった。

 かわいい装幀の絵を見ながら、大正~昭和初期の京の芸術家のはかない生涯について思いをはせることになった。