「戯曲集 鴉」のデザイン

 なぜ、洋画家船川未乾について調べ出したのだろう。

 江戸後期の京の俳諧師西村定雅を調べていて、大正10年刊行の藤井乙男「江戸文学研究」を手にしたのがきっかけだった、と思い出した。この画家の手になる本の装幀に興味を持って、未乾画伯を少しずつ調べ出したのだ。没後一度も回顧展が開かれず、作品集も刊行されていないこともあって、関心が膨らんだ。

 

 やっと、画伯のことがある程度分かる著作が見つかった。作家富士正晴の「榊原紫峰」(1988、朝日新聞社)だった。画伯の心友だった竹内勝太郎に、富士は高校生時代に師事していたのだった。

 

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 遺族から勝太郎の日記を託された富士は、日記を読み込んだ。それをもとにして、日本画家の紫峰を描き、もう一人の心友未乾のことも紹介していたのだ。

 詩人の竹内勝太郎、日本画家の榊原紫峰は、京都の法然院の西に建てられた未乾のアトリエ洋館近くに住まいを持ち、頻繁に会って話す仲だった。

 未乾の最期を看取ったのは、夫人と勝太郎で、葬儀委員長は、紫峰が務めたことも判った。

 

 この「榊原紫峰」を読んでいる時、昭和2年(1927)に未乾が装幀した関口次郎「戯曲集 鴉」(創元社)が古書肆から届いた。

 函を見、函から本をひきだして表紙を見た。そして、ページをめくってみると、意外な見返しがあった。

 

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 抽象画のようなデザイン。銀の縦線が、右方に何本も描かれている。左ではその線が中央でかたまり、淡い青緑が点々と加えられている。銀は所々でキラキラ光っている。

 左の方の茶は、経年変化による紙のしみなのだろうか。

 

 裏の見返しでは、同じ構図なのに、右側に同じような茶が浮かんでいる。

 

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 昭和2年、今から95年前、この見返しは、銀がキラキラと光るもっともっと美しいものだったと想像できた。

 

 未乾の装幀には、度々、目を驚かせる仕掛けがほどこされるが、この本ではこの見返しがそれであろうと思った。

 

 表紙は、乳白色に金の箔押しで、花を描いた線画。函の絵を参考に考えると、チューリップの花5本なのだろう。美しい金の箔押しは、この後に装幀した勝太郎の「詩集 室内」でさらに大胆に展開することになる。

 

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 著者の関口次郎(1893-1979)は、敦賀生まれで、東京帝大を卒業後、大阪朝日新聞に入社した。大正12年に退社し、当時は東京で新劇の演出家、戯曲作家として独立していた。

 創元社は、新しい才能を戯曲の世界でも見つけて、世に出そうとしたようだ。

 

 表題の「鴉」は、山奥の宿にひっそりと現れた文筆家を主人公にした短い戯曲だった。弟がテロ事件を起こし、父が責任を感じて自死、主人公も離婚に追い込まれ、世間、マスコミの喧噪から逃げて来たのだった。宿でもまた、私服刑事にマークされ、新聞記者が執拗に追いかけるー。今に通じる内容だったので、抵抗なく読むことができた。

 

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「榊原紫峰」には、関口次郎が登場する。ひとつは、文壇進出を願う勝太郎に頼まれ、未乾が病気を押して、関口に伝手を求め勝太郎を伴って上京したという記述だった。面倒見のいい未乾が、関口を信頼していたことが伺われる。(勝太郎にはこのように厚かましい点が多々ある)。

 関口はこの年、岸田國士岩田豊雄らと新劇研究所を設立した。実は、この岩田(獅子文六)は、1922年船川未乾夫妻と同時期に渡仏し、パリでも交流があったと思われる。未乾と関口は、獅子文六という共通の知人があって、つながりも深まったのだろう。

 関口は、未乾の葬儀でも式の進行を手伝い、その後も上洛して未乾の遺言だった遺作展の話を紫峰、勝太郎と3人でしていたことが記されていた。

「資金の点で遂に不可能になってしまった」と勝太郎は日記に綴っていた。