大正時代の学術誌「歴史地理」(大正5年)の表紙や挿絵に、画家で版画家の森田恒友が関わっていたー。と、以前に書いたが、そのまま打っちゃっていた。
翌6年7月の第30巻第1号を手にいれた。森田画伯のものと思しき、同じサインが刷られていた。
同人物が大正6年も表紙を担当していたのだ。
「歴史地理」の文字の書体は変わっていた。タイポグラフィーも、画伯が関係したのだろうか。
デザインは、上部に葡萄唐草文。右横に、薬師寺三重塔の水煙の楽士天人像。
2色刷りであり、また見慣れた文化財の「模写」のせいか、前年の表紙デザインに比べると、新鮮さに欠ける第一印象をもった。
しかしよく見れば、楽士に躍動感があって、見事である。
また、水煙の天人像は、大正6年ごろ一般に知れ渡っていたのだろうか、と思った。薬師寺三重塔の水煙は、塔の天辺にあって、間近で見られない。明治20年代に薬師寺を訪ね、「凍れる音楽」のようだと発言したと伝えられるフェノロサも、水煙を目の前で見ていない。
水煙が地上に下ろされたのは、1898年(明治31年)の解体修理以降だ。
(三宅米吉著述集・下)
米吉は、天人の彫刻に注目した。「水煙は高さ六尺四寸、四片より成り 口絵に示せるは南北の二片にして 外に尚二片あり。南北の二片には 天人三人宛を彫刻したれども 東西の二片には天人二人宛なり」。
続けて、「此の彫刻最も奇古にして奈良以前の彫刻の著しき標品なり」と高く評価している。
注目されだしたのは、1900年のこの文章以降だろう。森田恒友が版画にしたのが、大正6年(1917年)。この薬師寺の天人像は、当時、まだ新鮮なものだったのではないか。白樺派の志賀直哉が奈良に移住したのは大正14年。奈良の文化財が多くの人に関心を持たれるのは昭和に入ってからのようだ。
「歴史地理」の表紙に、この天人像が選ばれたのは、二番煎じではなく、積極的に紹介する意図があったのだと推察する。本人のアイディアなのか、雑誌の編集に当たった歴史家の喜田貞吉が依頼したのか。
大正12年の関東大震災で東京が打撃を受けるまでの、短い時代、学術雑誌の編集にも、創造的な雰囲気が漂っていたことが伺える。