喜田貞吉の「悲惨なる僥倖」

 なぜ、喜田貞吉法隆寺の老人、北畠男爵に気に入られたのか。

 

 ヒントになるのが、喜田が還暦の時に発行した「六十年の回顧」(昭和8年)の記述だ。

 

 喜田は明治38年法隆寺に二度目の訪問をしたときに、奈良女子高等師範の水木要太郎に北畠邸に連れていかれた。北畠が水木に、喜田が来たら連れて来いと命じていたのだ。

 法隆寺に関する論文はすべて目を通していたと思われる北畠が、喜田の論文「関野・平子二氏の法隆寺非再建論を駁す」を気に入ったのだった。法隆寺は、創建当時のままでなく、一度焼けて再建されたものだという内容については「お前も馬鹿な事を言ったものだ」と認めていない。

 

 論争相手(関野貞、平子鐸嶺)への筆法の激しさが気に入ったのだった。「あれには関野・平子の青二才共も随分参ったであらう」。

 男爵は、さんざん喜田を罵倒したあと、「併しお前の筆法の鋭利なのには感心した。あの筆を以て俺の説を発表したら天下無敵だ。どうだ教へてやるから二三日宅に逗留してくれんか」と誘ったのだった。

 

 北畠男爵は、幕末の勤王の志士の生き残りだった。法隆寺付近の商家の次男として育ち、天誅組の変に師と参加。師は殺されたが、彼は生きのびた。長州藩で義勇隊を結成するなど活動を続け、戊辰戦争有栖川宮の東征軍に加わって、江戸に入城した。この時までに、平岡姓から南朝の功臣北畠親房にちなんだ北畠治房に改名している。

 討幕の功績から、司法官として、京都、横浜、東京の裁判所長、大阪控訴院長などに就任した。大隈重信と近しかったため、大隈とともに明治14年の政変で失脚した。

 その後、大隈の設立した立憲改進党、東京専門学校(早大)の議員となる。明治29年男爵となるが、その年は、大隈が外相兼農商相で入閣した第2次松方正義内閣(松隈内閣)。叙爵には、大隈の強い援護があったと想像される。

 

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 一方の喜田は、法隆寺には興味はなかった。明治38年春、同郷の師、国文学者小杉榲邨(こすぎ・すぎむら)を訪ねたのがキッカケだった。小杉は、日本書紀の記述から、法隆寺は天智9年に焼失した=写真=と、当たり前のように再建説を唱え、美術院でも得々と講演をしたところだった。

 ところが、直後関野が、建築の尺度の面から、平子は新発見の文献から、法隆寺非再建説を発表した。「史学雑誌」の記者もこれで非再建が確定したと断言したため、小杉は面目を失い、しょげ返っていたという。

 見かねた喜田は、法隆寺のことは全く分からないまま、一肌脱ぐ決意をする。関野らの論文を読み、「一夜漬けで」(喜田)、論理的な反駁を試みる文章を拵えた。自ら「揚足取り」と振り返っている内容だったが、「歴史地理」と「史学雑誌」に発表した。

 さらに、史料を探索し、法隆寺資材帳に天平年間になっても講堂がなかった記述を発見すると、再建は間違いないと確信し、立て続けに六編の論文を寄稿した。

 

 激しい性格の北畠はこんな喜田に、相通ずるものを感じたのではないか。

 

 喜田は「法隆寺再建非再建論の回顧」(昭和9年)で、「北畠男爵から招致せられて猛烈なるお目玉を頂戴し、更に同男爵直接の案内によって、生れて始めて法隆寺伽藍の内部に立ち入り、心行くばかり之を視察するの機会を得た事は、余輩に取って滑稽なる、否むしろ悲惨なる僥倖であった」と振り返っている。この時、男爵は他界していた。

 

 南朝の末裔を自称する北畠は、喜田が南北朝正閏問題で四面楚歌にあった5年後の明治43年、喜田宅を訪問した。喜田は「自分が乱臣賊子の名を以て社会から包囲を受け、はては文部編修の休職を命ぜられた直後」「自宅に引き籠って謹慎して居た際であったが、折からの雨を冒して、思ひもかけぬ北畠男爵が、突然護国寺前の宅に車を乗り着けられた」「これは北朝論者と誤解して、例の筆法によって御自身頭から自分を怒鳴り付け、それで満足を得られんが為に態々見えられたのであらう」と覚悟した。

「然るに思ひきや男爵の最初の御挨拶が、「此の程の南北朝問題に就いての君の苦心は深く諒とする」といふのであ」った。

 来意を尋ねると、北畠は、関野貞と喜田は、法隆寺に次いで平城京の研究でも対立している。自分が立ち会って、平城京の現場で2人で説明してほしい、立会演説会をして自分が審判してもいい、という提案だった。(呆気にとられた喜田は同意したが、結局立ち消えになった)。

 

 この行動は、平城京の提案をダシにしての、北畠男爵一流の、喜田を心配した激励訪問だったように思える。喜田には、老人キラーの面もあったようだ。