政職氏と考古学者柴田常恵氏の出会い

 考古学者の柴田常恵(じょうえ)氏(1877-1954)の残した豊富な写真資料が、国学院大学デジタル・ミュージアムで簡単に見ることができる。北海道から鹿児島、朝鮮、南洋パラオ、中国―フィールドワーク、遺跡発掘調査など貴重な写真資料ばかり。

 そのうちの、神奈川㈡にクリックすると、小田原市小田原遺跡と表記された16点の写真が出てくる。発掘された弥生時代の出土品や、遺跡の地層、発掘現場。スーツにコート姿の学者たちが、警官らと発掘を見守る写真は、大正時代の発掘の様子を伝えてくれる。

 

 夭折した考古学者榊原政職氏を調べてゆくと、この小田原市での柴田氏の遺跡発掘が、政職氏に大きな影響を与えたことが分かった。同氏の異母弟で、榊原家の当主を継いだ政春氏の夫人榊原喜佐子氏が「殿様と私」(2001、草思社)を上梓し、政職氏の事を書いていたのだ。

 喜久子氏は、政職氏の没後、政春氏に徳川家から嫁いだため、政職氏とは面識はない。しかし、政春氏から話を聞かされ考古学者の義兄を誇りにしていたことが伝わる。

 

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 同書によると、政職氏は、学習院初等科から中等科に進んだものの、肺の疾患で病弱だったため、小田原に療養転地したのだという。小田原城の濠近くの知人の家に世話になり、県立小田原中に通うことになった。

 在学中の大正6年、小田原の丘陵で古代遺跡の発掘調査が行われ、市中で大きな話題となった。調査に当った東京帝大人類学教室助手の柴田氏が、小田原中でも講演を行った。柴田氏は博学で知られ、同僚の大場磐雄氏は、なにか疑問があると、みな柴田氏に話を聞きに行ったと回想している。中学生を前にした話も内容豊富だったと想像される。政職氏はすっかり考古、人類学のとりこになったのだった。

 

 関野貞日記を見直してみると、大正11年9月10日付に、「晴、柴田君ト小田原ニ、榊原政職氏病気見舞。帰途、長谷鎌倉ニ立寄」とあり、同15日付に「午後四時廿五分発、柴田君ト小田原ニ往キ、藤原旅館ニ投ス」と、柴田氏が登場していた。柴田氏は政職氏と交流し、後々まで気にかけていたのだった。

 

 政職氏は大正7年中学を卒業。考古学の勉強を望んだ。「このころはまだどこの大学にも考古学の専門学科はなく、勉強したいものは人類学講座や考古学講座が開かれている東京帝大や京都帝大の研究室に私的に出入りし、研究の便宜をはかってもらうしかなかったそうだ」と喜佐子氏。「そこで兄は、旧高田藩の家来筋にあたる関野峻節(ママ)東京帝大教授に相談し、当時京都帝大の考古学教室の助教授だった浜田耕作博士を紹介された」と書いている。(関野峻節は貞の父の名で、関野貞の間違い。また、浜田は助教授ではなく教授になっていた)

 「兄はすぐ京都にむかう。浜田博士は、初対面ですっかり兄に厚意をもたれたらしく、みずから学長にかけあい、兄を教務嘱託として自身の考古学教室にいれてくださった。/以後兄は浜田先生と同僚である島田貞彦先生の家に下宿し、浜田博士の指導のもと必死に勉強をはじめる」と綴っている。

 

 柴田氏は大正9年に、東京帝大人類学教室助手から、内務省地理科嘱託・史蹟名勝天然紀念物調査会考査員に異動した。調べていて、興味深かったのは、東京帝大人類学室に、越後高田藩の家臣の考古学者がいたことだ。

 若林勝邦氏(1862-1904)で、人類学教室が設置された当時から勤務し、坪井正五郎氏と吉見百穴の発掘調査にあたった。帝室博物館の三宅米吉氏とともに、考古学会設立で大きな役割をはたし、帝室博物館に移ったが、明治37年(1904)に若くして亡くなった。

「忘れられた考古学史上の人物」(斎藤忠)といわれる若林氏が存命なら、榊原政職氏もまた、京都帝大でなく、帝室博物館、東京師範の三宅門下で活躍していたかもしれない。

 若林氏は、幕臣とされていたが、柴田氏の遺稿「人類学教室 考古学会のことども」に、「若林勝邦氏は越後高田藩の榊原氏の家臣なり」としるされているのを、国学院大の研究者が発見した。(「柴田常恵遺稿『雑録  人類学教室 考古学会のことども』」石川岳彦、杉山章子、大山晋吾、国学院大学研究開発推進機構紀要 平成29年3月)。

「若林勝邦氏は越後髙田の榊原氏の家臣なり。(中略)小學校の湯島辺に在るものに教員たりしが、坪井先生を訪ねて人類學に興味を有するに至り、遂に未だ英語を知らさりしより、先生は之れを教へしが、勉強には随分熱心なるものありしと云ふ。氏が榊原氏の藩邸は龍岡町に在りしことゝて小学校の餘暇大學に来りて教を受くる便宜がありし故もあるべし」

 榊原青年と、若林勝邦、関野貞両氏と、柴田氏は越後高田藩出身の学者たちと深い縁を持っていたのだった。