皇帝の鐘と銅鐸

 ロシアの鐘(コーラカル)について思い出したのが、柴田常恵氏の先生だった考古学者の坪井正五郎氏(1863-1913)のことだ。英留学し、東京帝大の人類学教室で、考古学や人類学を日本で立ち上げた人物だ。

 私は、「ウリユス」という江戸時代の薬問屋の看板を解明した坪井氏の文章を読んだ記憶があって、面白い人物として昔から感心している。ウリユスの看板は、どんな意味で、どんな薬だったか。

 坪井は、「空ス」(むなしゅうす)と、お腹の中を、空にしてすっきりする薬だったとし、漢字の「空」を分解し、「ウ」「ル」「ユ」。それにスをつけて、ウルユスになったのだ、と書いていた。

 ユーモアのある学者だったと思う。モスクワからサンクトペテルブルグへ向かう列車の中で、日本に向けて書いた絵葉書が、モスクワ・クレムリンの「皇帝の鐘」だった。第5回万国学士院大会に参加するため、ロシア革命前夜の1913年5月に訪問したのだった。

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 5月2日にモスクワに到着し一通り見物し夜汽車に乗ったと、ハガキに書いている。クレムリンの名物だった高さ6㍍、重さ202トンの、割れた巨大な大鐘に坪井先生は線をひき「銅鐸にあら」ずと書き入れ、後ろに写った宮殿の丸屋根にも線を引いて、「弥生式土器にあら」ずと茶目っ気たっぷりに記しているのだった。

 大鐘は確かに銅鐸と似てなくはないが、丸屋根の方は弥生式土器の壺にもっとよく似ている。こういうクレムリンの光景を見ても、自分が研究する弥生時代の青銅器、土器を連想してしまうのだった。

 
 坪井氏は5月26日にサンクトぺテルブルグで客死したため、この絵葉書が「絶筆といってよい」と斎藤忠氏は記している(日本考古学選集2/坪井正五郎集2)。この絵葉書は考古学者の斎藤氏所蔵。

 

 TSAR KOLOKOLと呼ばれるこの皇帝の鐘は、アンナ女帝(在位1730-1740)の命で作られた。世界最大のブロンズの鐘だったが、鋳造中割れてしまったとされる。別名「KOLOKOL Ⅲ」と呼ばれているのは、前に書いたように、1の銀の鐘、2の金の鐘、3の銅の鐘、4の鉄の鐘のうちの、3番目の銅の鐘だからだろう。