日葉酢媛から息長帯姫へ

 いきなり、石枕のことを考え出しても所詮はシロウト。これから網羅してチェックするほど、残りの人生は長くない。

 今までの記憶と手に入る史料で考えるしかない。

 神功皇后が、先に亡くなった仲哀天皇のために、棺の石材を手配する話が、「播磨国風土記」に記載されているのを思い出した。

 

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 印南の郡 の「大国の里」の条

 この里に山があり、その名を伊保山という。帯中日子天皇仲哀天皇)を〔崩御されたので〕神と仰ぎ奉り、[陵墓造営のために]息長帯日女命(神功皇后)が石作連大来を連れて讃伎の国の羽若の地の石をお求めになられた。(吉野裕訳、東洋文庫平凡社、昭和44年)

 

 神功皇后が、仲哀天皇の棺を作るため、石作連大来という石棺作りを連れて、播磨の印南郡加古川右岸、現・兵庫県高砂、姫路、加古川市)にやってきた。瀬戸内海の向こうの讃岐の羽若の石を手に入れたい、というのだった。

1 播磨にも石材はあるが、なぜ、海を渡った讃岐の石を求めたのか

2 石作連とはなにか

 

1 羽若の石の、羽若(はわか)は現在「羽床(はゆか)」の地名で残っている。香川県の鷲ノ山の麓にあり、鷲ノ山には、古代から続いた石切り場の跡が残っている。

 propylite=変朽安山岩が採れ、石材として活用され、石棺にももちろん利用されている。仲哀天皇の石棺に用いたいという、神功皇后の話は納得がいくものだ。

 

 さらに興味深いのは、前に示した白井久美子氏論文に紹介された高松市の三谷石舟古墳の石枕の付いた割竹型石棺もこの鷲ノ山の石が用いられていることだ。斎藤忠氏「日本古墳の研究」を読むと、三谷石舟古墳に先立つ快天山古墳にも、同様に石枕がついた4世紀半ばの割竹型石棺が見つかっている。快天山古墳は鷲ノ山の近くにあり、石材も鷲ノ山石だった。

 

 丹後と並んで、讃岐地方にも、最古級の石枕が出土していて、その割竹型石棺と同じ鷲ノ山の石を仲哀天皇の石棺のために、わざわざ手に入れる話は、仲哀天皇にも石枕付き石棺を作るためだったと考えたくなる。

 

2 石作連大来は、日本書紀で日葉酢媛命が夫の垂仁天皇の葬儀で、あらたに石棺作りの専門職として定めた「石祝作(いしきつくり)」の当時の責任者なのだろう。垂仁紀には、石は石祝作に、埴は土師が担当するように定めたとある。神功皇后は、日葉酢媛命のこのしきたりを継承しているように思える。

 

 1,2から、後世の8世紀につくられた「播磨国風土記」に伝えられる限り、神功皇后は、垂仁天皇系のゴッドマザー日葉酢媛命の葬儀の作法の踏襲者であったことになる。