カイツブリと鵜の女帝

 

 神功皇后の名が、オキナガタラシヒメと、カイツブリに関係したように、別の古代の女帝に別の潜水する鳥の名がついているのが、面白いと思っている。

  持統天皇(645-703)だ。鸕野讚良(うのささら)という。鸕の表記だが、鵜のことだ。

 中国語では、鵜は「鸕鷀」(ろじ)で、日本書紀でも、神武天皇の父は鸕鷀草葺不合尊(うがやひきあえずのみこと)、と表記されている。「鸕鷀」から「鸕」一字でもウを表すようになり、神武紀には「阿太の養鸕部」と鵜を飼う集団を、こう表記している。

 持統天皇は吉野へたびたび行幸し、その時の様子を柿本人麿が歌っている。長歌の一部―。

 

「上つ瀬に鵜川立て 下つ瀬に小網(さで)さし渡す 山川も依りて仕ふる 神の御代かも」

吉野川の川上に鵜川を立てて、川下に小さな網を渡す、山川の自然も仕え奉る 持統天皇の世であるよ》

といった内容だろう。

 吉野川での鵜飼の様子を記しているのが興味深い。川下に小網を張って、川上から鵜を放った様が想像される。

 近代ではあるが、八女市矢部川筋でこんな鵜飼が行われていた。

「両岸にいる数人がヒキアミという長い網の両はしをもって、川下へとくだってゆくと、各自一羽のウをつかうものが、ヒキアミに接するようにしてやはり川下にくだってゆく。アユは川上へのぼろうとしてヒキアミにさえぎられ、そのあたりでうろうろしているのを、ウにとらせるのである」(最上孝敬「原始漁法の民俗」岩崎美術社)

 これはともに上流から、網と鵜で下るものだが、人麻呂が歌った鵜飼は、下流に網を張って、アユをせき止めて、上流から鵜をつないで下っていったものだろう。網の周辺での賑やかな鵜たちの動きが目に浮かぶ。

 純粋な漁というか、祭りあるいは、スポーツのような匂いもする。ともあれ持統と鵜の関係はまんざらでないだろう。

 オキナガタラシヒメとカイツブリ、ウノササラとウ

 2人の「女帝」は、響きあっている。

 
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     残念ながら夜の鵜飼しかみたことがない