ハヤブサの呼称と下毛野朝臣古麻呂

 なおも、奈良時代ハヤブサについて。
 
 大宝2年(702年)に、薩摩隼人のくにが「唱更国」と命名されたのは、理由がある。薩摩隼人が文武朝に逆らったので、征討されたためだ。「続日本紀」に、反乱や制定の動きが出ている。
 
大宝2年8月1日 
薩摩と多褹(たね)は王化に服さず、政令に逆っていたので、兵を遣わして征討し、戸口を調査して常駐の官人を置いた。
同9月14日  
薩摩の隼人を征討した軍士に、それぞれ功績に応じた勲位を授けた。
同10月3日  
これより先、薩摩の隼人を征討する時、大宰府管内の九神社に祈祷したが、実にその神威のお蔭で、荒ぶる賊を平定することが出来た。そこで幣帛を奉って、祈願成就に報いることとした。/唱更国司ら〈今の薩摩国国司〉が言上した。『国内の要害の地に、柵を建て、守備兵を置いて守ろうと思います』と。
 
 文武朝にたてついた「隼人」を忌んで、「唱更」と表記をかえたと解釈できる。
 ハヤブサの東アジアでの呼び方「ションコル」を、唱更と漢字に当てたというのが、私の仮説だ。
 持統太上天皇文武天皇の下で、「唱更」の名を決めた人物を推定できないか。
 
左大臣      多治比真人嶋
右大臣      阿部朝臣御主人
大納言太宰帥   石上朝臣麻呂
大納言      藤原朝臣不比等
大納言      紀朝臣麻呂
兵部省長官    大伴宿祢安麻呂
 
 隼人の叛乱直後に、太宰帥に任命された石上麻呂式部省長官から、兵部省長官にシフトした大伴安麻呂が征討の指揮をとったことが分かる。ただし、2人とも、軍事担当。国名変更には、関わらなかっただろう。
 
 注目すべきは、当時、頭脳集団がいたことだ。前年の、大宝元年の8月に大宝律令を仕上げた連中だ。そのスタッフの中にこそ、「唱更」案を出したものがいるのではないか。
 
 三品     刑部親王
 正三位    藤原朝臣不比等
 従四位下   下毛野朝臣古麻呂
 従五位下   伊吉連博徳
 従五位下   伊余部連馬養
 
 政治家藤原不比等に見込まれ、実務を取り仕切っていたのは、右大弁の下毛野朝臣古麻呂、伊吉連博徳、伊余部連馬養だった。
「右大弁、従四位下、下毛野朝臣古麻呂ら三人を遣わし、初めて新令(大宝令)を講釈。親王、諸王、諸臣をはじめ諸官の人たちは古麻呂らについて学習した」と続日本紀に書かれている。
 
 自ら新しい法律規則を作り、親王、官僚たちに講義したというわけだ。この三人の中に、実は、鷹飼家として平安時代に知られた一門の人物がいる。下毛野氏だ。摂関家の大臣の正月饗応行事で、重要な儀式「鷹飼渡」の役目を独占していたことで知られる。鷹飼装束をつけ、左手に鷹を据え、右手に雉をつけた枝を執って、犬飼装束の犬飼を引き連れて登場するものだ。正月の祝いに、その雉を料理して食べたりしたようだ。
 
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 「徒然草」66段にも、鳥柴の作法について語る鷹飼の下毛野武勝という人物が登場する。鷹飼といえば、下毛野家と知られていたことが分かる。
 
 東アジアの鷹狩文化の中で、ハヤブサが、ションコルと呼ばれていたことをよく知り、隼人の代わりに、唱更の文字を当てた官僚は、鷹飼を好んでいた人物としか考えられない。奈良時代までさかのぼって下毛野氏が鷹飼家だった記録は残っていないが、後世、鷹飼の専門家として名高い一門として知られるようになったことから類推して、下毛野朝臣古麻呂が、一番可能性が高い人物と思う。