大宝2年8月1日
薩摩と多褹(たね)は王化に服さず、政令に逆っていたので、兵を遣わして征討し、戸口を調査して常駐の官人を置いた。
同9月14日
薩摩の隼人を征討した軍士に、それぞれ功績に応じた勲位を授けた。
同10月3日
これより先、薩摩の隼人を征討する時、大宰府管内の九神社に祈祷したが、実にその神威のお蔭で、荒ぶる賊を平定することが出来た。そこで幣帛を奉って、祈願成就に報いることとした。/唱更の国司ら〈今の薩摩国の国司〉が言上した。『国内の要害の地に、柵を建て、守備兵を置いて守ろうと思います』と。
文武朝にたてついた「隼人」を忌んで、「唱更」と表記をかえたと解釈できる。
ハヤブサの東アジアでの呼び方「ションコル」を、唱更と漢字に当てたというのが、私の仮説だ。
左大臣 多治比真人嶋
右大臣 阿部朝臣御主人
大納言太宰帥 石上朝臣麻呂
大納言 紀朝臣麻呂
兵部省長官 大伴宿祢安麻呂
三品 刑部親王
従五位下 伊吉連博徳
従五位下 伊余部連馬養
自ら新しい法律規則を作り、親王、官僚たちに講義したというわけだ。この三人の中に、実は、鷹飼家として平安時代に知られた一門の人物がいる。下毛野氏だ。摂関家の大臣の正月饗応行事で、重要な儀式「鷹飼渡」の役目を独占していたことで知られる。鷹飼装束をつけ、左手に鷹を据え、右手に雉をつけた枝を執って、犬飼装束の犬飼を引き連れて登場するものだ。正月の祝いに、その雉を料理して食べたりしたようだ。

「徒然草」66段にも、鳥柴の作法について語る鷹飼の下毛野武勝という人物が登場する。鷹飼といえば、下毛野家と知られていたことが分かる。
東アジアの鷹狩文化の中で、ハヤブサが、ションコルと呼ばれていたことをよく知り、隼人の代わりに、唱更の文字を当てた官僚は、鷹飼を好んでいた人物としか考えられない。奈良時代までさかのぼって下毛野氏が鷹飼家だった記録は残っていないが、後世、鷹飼の専門家として名高い一門として知られるようになったことから類推して、下毛野朝臣古麻呂が、一番可能性が高い人物と思う。