鷹飼家の俳人土卵

 先に触れた天明期の京都の俳人で洒落本作者「富土卵(とみ・とらん)」を調べていて、土卵が下毛野氏の末裔であることが分かった。

 

 下毛野氏といえば、前に度々触れたように、古代から中世へ「鷹狩」の技術を伝承した一族で、平安時代には、摂関大臣家の大饗で「鷹飼渡」という庭で鷹を飛ばす行事を勤めたことで知られる。

 

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「鷹飼渡」は、「特に正月に行われる大臣家大饗の中で、客に供するためのキジを鷹飼が提供する儀式のこと」(大塚紀子「鷹匠の技とこころ」)で、鷹飼は大臣らの前で鷹を飛ばし、あらかじめ鳥柴に結んで用意したキジを渡す。鷹狩を形式化した行事だが、犬を連れた犬牽きを従えて、神経質な鷹を狭い庭で飛ばすことは、相当鷹狩の技術に長けていないと難しいと、鷹匠の大塚氏は語っている。

 

 土卵の「粋庖丁」(寛政7年)が、「洒落本大成16巻」に収録されているのを知って、目を通したところ、解説に経歴が記されていたのだった。

本姓下毛野氏、名敦光。『地下家伝』巻十五によるに、調子家の下毛野武音の次男として、宝暦九年五月二十六日に生れ、明和八年、一旦絶えていた崇神天皇皇子豊城入彦命の後胤である富家に入って、これを再興したのである

 

 下毛野氏は、調子家、富家に分かれているが、江戸時代の末まで京都で、「左右近衛府」の地下官人(じげかんじん)を世襲していた。継承者が絶えた富家を再興するために、調子家の次男坊の土卵に白羽の矢が立ったと思われる。

 

 土卵は近衛府の役人として、禁中警衛行幸警護などの職務に就いたようだ。順調に昇進して、近衛将監(しょうげん)、つまり現場指揮官となり、位も従五位下にまで上がったという。

 

 その傍ら、東山の雙林寺の前に住まいし、向かいの家の、西村定雅らと俳句を作り、洒落本を書いて暮らしていた。ちょっと不思議な人物である。

 

 彼の「粋庖丁(すいほうちょう)」に目を通してみた。

「心地よき物」「気味の悪き物」「にくき物」「きたなき物」など、それぞれの題に、つぎつぎと例を挙げて、書き進めていく。今でいう「あるある」風に読み手を頷かせていく感じだ。

 

「気味悪き物」の題なら、

「宿坊(たのみでら=菩提寺)の和尚に、薬貰う病人」

「闇の夜船の便事」

「盗(ぬすびと)の入たるあと」

「釣鐘の下」

「孟八(たいこもち)の目礼」

と、薄気味悪いものを並べていく。

 これらの途中に、京都の色里での粋な話や、無粋な逸話やらが、「気味悪き物」「にくき物」などに分類され、それぞれ差しはさまれている。「粋庖丁」は、土卵26歳の作。2年前には「花實都夜話」を出している。

 

 土卵は鷹飼の儀礼と全く関係がなかったのだろうか。

 京都・乙訓郡の調子家には、「鷹飼に関する口伝」が現在まで伝わっており、富土卵の時代にも、鷹の神事などの伝承や、一族の来歴についての知識は継承されていたに違いない。

 富土卵の本名、下毛野敦光についても、鎌倉時代大臣大饗で鷹の「渡り」を披露した人物の名前に「下毛野敦利」があり、「敦」の字は、一族で継承されてきたものではないか。

「下毛野氏は江戸後期に至るまで近衛府官人、御随身を維持したというが、残念ながらその技術は今に伝えられていない」(大塚氏、上掲書)。

 

 天明期の俳人には、興味深い人物が多いが、土卵については、まだまだベールに包まれているように思われる。

 

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 土卵の句「更衣綿ふき出セし戻り哉」を見つけたが、解釈が出来ない