シナモンが入っていた南蛮粽花入

 10年前の誕生日祝いに、神保町の店で細に買ってもらった「南蛮・島物」の花入壺は机の上に置いてあるが、孫娘がやって来ると、クレヨンや色鉛筆を壺の中に詰めこむ悪戯をして遊んでいる。

 頑丈なので、ちょっとのことでは壊れそうにないから、まあ許している。

 

猫は壺に無関心

 

  この壺は、18-19世紀の江戸時代にベトナムから油入れの壷として輸入されたのではないか、と推測してそのままになっていた。

 

  今回、京の好古家・藤貞幹の偽書作成の疑いについて調べていて、ひょんなことからこの壺について新たな発見があった。

 南朝の公卿たちの名簿が記された偽書公卿補任四巻」は、藤貞幹が「仮造シテ」「(岡山の)河本(公輔)ニウ(売)リタルナリ」と「況斎雑記」で言い切っている国学者・岡本況斎(1797−1878)について、調べている過程でこの壺に出くわしたのだ。

 

 彼の「況斎随筆」に、上図の壺が書かれていた。少し細めの壺だが、同種らしい。

飴粽花生(あめちまきはないけ)」。

 南蛮・島物は南蛮粽花入とはいわれていたが、江戸時代、こう呼ばれていたのだった。

 

 ならばと「飴粽花生」を、江戸時代の他の書物で探すと、戯作者田宮仲宣の随筆「嗚呼矣草(おこたりぐさ)」(文化3年、浪花書林)に行き当たった。

 飴茅巻は、茅萱で巻いた粽を大和の箸中で「あめちまき」と初めて呼んだこと、京都烏丸の道喜で売っている粽のように、藁苞(わらづと)の形に後先を括ったもののこと。そして、

交趾焼の壺の花生を飴茅巻といえるは形の似たる故なり」と飴粽花生のイワレを書いていた。

 

 交趾焼の交趾は、ベトナム北部トンキン・ハノイ地方。ベトナムで焼かれた壺であるのは間違いなかった。(「嗚呼矣草」の跋は下毛野朝臣敦光。京・真葛が原の洒落本作者・富土卵ではないか)。

 

 さらに、私が注目したのが、岡本況斎が「新来ナリ薬ヲ入テ来ルモノナリ」と記していたことだ。

 薬入れ。私が予想した油ではなく、薬が入っていたというのだ。ベトナムから江戸時代に輸入された薬はなにか。

 

「シナモン」らしい。肉桂、桂心など記され、漢方の生薬としてベトナムから輸入されていたという。とくに北中部ベトナム産の高級品が、日本にもたらされていたそうだ。(柳澤雅之氏「江戸時代のシナモンの受容と伝播」)

 

 況斎の断言が正しければ、わが家の600cc入りの壺は、シナモンの粉末の生薬が詰められて輸入されていたことになる。

 

 偽書探求からはそれてしまったが、長年の謎の解決へ一歩前進して、嬉しい気分になった。